NHK受信料の支払い拒否・・が増加しているという。なんか、違う。
NHKの受信料不払い件数が、3月末で70万件を超えそうだ、という報道があった。一連のNHK不祥事の影響で、この半年ほどの間に倍以上に増加しているという。——これが、どうも不快である。いや、「受信料の不払いが増えていること」が、ではない。「不祥事の報道後に増えている」ということが、だ。
僕は、NHKの受信料を払っていない。これは、現在の受信料による収益によって運営される仕組みそのものに反対であり、まるで受信契約を義務であるかのように騙るそのやり口に納得できないからだ。このへんは、前に「静かになったNHK」に書いた。(これ参照) だから、受信料の不払いが増えるのは大賛成!と思われるのかも知れないが、そうでもないのだ。——なぜ、不払いが増えたのか。そこのところに、なんともいえないもやもやしたものを感じてしまうのだね。一連の不祥事がきっかけで、NHKと放送受信料の支払いというものに疑念をもち、「やはりこれは支払うべきではない」と考えて不払いに踏み切った、のであれば諸手を上げて賛成するし応援したい。だが、そうなんだろうか。そうではない人がひょっとして多いんじゃないかと思えてならないのだ。 不払いが増えた最大の理由。それは、「一連の不祥事を見て、払うのがイヤになった」からではないか。「こんなところに金を払うのがバカらしくなったから」というのが最大の理由ではないだろうか。あるいは、「みんな払わないみたいだから」「払わない人が増えたから」なんて、とんでもない理由で払うのをやめたりしてはいないか。——僕は、そういう理由で支払いをやめるという感覚が大嫌いである。そのような人間に、したり顔で「受信料の支払いは拒否すべきです、ええ」などと主張して欲しくない。そのような人間は、受信料支払いを拒否している僕にとっても迷惑だ。 不祥事に腹が立ったから払うのをやめる。では、頑張って立派なNHKになったら払うのか。つまりは、「受信料を支払うか否か」はNHKに対する人気投票みたいなものなのか。——僕は、NHKが実に立派な会社に立ち直り、放送局として理想的なものになって圧倒的多数の国民から「やっぱりNHKだ、NHK頑張れ、NHKを応援しよう!」と支持されるようになっても、断じて受信料は払わない。なぜなら、受信料の是非は、「NHKが立派かどうか」とは無関係だからだ。これはシステムの問題であり、「受信料というシステムそのものが間違っているか否か」の問題なのだから。逆にいえば、僕は受信料のシステムが納得できるきちんとしたものになれば、NHKがどんなに不祥事を起こすひどい会社であろうと受信料を払い続ける。これは、NHKがいいか悪いか、好きかキライかの問題ではないのだ。 ときどき人は、「それが正しいか否か」と「それがいいか悪いか」を、更には「それが好きかキライか」を完全に混同してしまうことがある。もちろん、それが必ずしも常に悪いとは限らないし、そのほうがより実態にあった判断ができる場合もある。だが、「これは、この基準に従って判断しなければならないのだ」というようなときに、この混同が起こってしまうことが実に多いのではないか。 例えば、まもなく陪審員制度(裁判員というらしいけど)が動き始めることになるのだけど、陪審員が「正しいか否か」をはかるべきときに、「いいか悪いか」「好きかキライか」を持ち込んでしまったらどういうことになるか。三谷さんの「12人の優しい日本人」ではないけど、とんでもない判決を出してしまうような事態にならないだろうか。——別に裁判に限らず、こういう「その基準は間違っている」と思える物差しで物事を考えてしまうことというのは、人間あるものだ。 多くの場合、考える本人は「自分が間違った物差しでものを見ている」ことに気づかない。そして——実は、「正しい物差し」が常に存在するわけでもなかったりするのだよね。だが、人間はたいていの場合、「自分の使っている物差しが唯一の正しい基準である」と盲信する。ときどき議論が白熱してきたときなどに「話が噛み合ない」というようなことがあるけど、これもけっこうな割合で「お互いが正しいと思っている物差しの種類が違っている」ために起こったりするのだよね。そしてたいていは、「お互いの基準が違う」ことに気づかず、ひたすら自己主張を繰り返し続けるだけの不毛な討論を続けてしまったりするのだ。 NHK受信料不払い、それは「受信料というシステムは正しいか否か」という物差しではかるべきものなのだ。それを「NHKがいいか悪いか」「好きかキライか」ではかってはならないのだ。——と、僕は考えるのだけど、それだって果たして「自分が正しいと思っている物差しが唯一の正しい物差しである」かどうか、僕自身にはわからないのだよね。なにしろ、自分にとってはそれは唯一無二の物差しなのだから。だから僕の判断が正しいかどうかはわからない、だけどこれだけはいっておきたい。 あなたは、なぜ受信料を払うのか。あるいは、払わないのか。そして、それは「なぜ」なのか。どういう物差しによって、あなたは「そうすべきである」と判断したのか。そのことを一度、冷静に考えてみて欲しいのだ。その物差しが正しいものか、他に採用すべき基準があるのか、それはわからないかも知れない。だけど、少なくとも「自分はこれを基準に判断したのだ」ということぐらいは自分で知っておきたい。少なくとも、例えば自分が「好き嫌い」という物差しではかっているのに「オレは正しいかどうかで判断しているのだ」と錯覚するようなことだけは避けてほしいと思うのだ。 せっかく、NHKというものについて考えるきっかけを掴んだのだ。だからこそ、「なぜ」ということをみんなでもっとよく考えよう。重要なのは「払うか払わないか」ではない。そこに至るまで自分はどう考えたか、そのほうが遥かに大切なことだと思うのだ。 公開日: 火 - 3月 15, 2005 at 07:17 午後 |