おすすめ本(16) 「平面いぬ。」 (ジュブナイル?)


知る人は知っている、けれどほとんど知られていない天才作家・乙一(おついち)の作品であります。かなり、すごい。まじで。

この人を「ジュブナイル」というジャンルにはめ込んでしまっていいのか?という疑問はとりあえずあるんだけど、デビューや作品発表が少年誌であるということ、内容的に見ても未成年の世界を中心とした作品が多いということで、ジュブナイル小説ってことにしましょう。ね。

ジュブナイルというと、やはり一歩劣った感じというか、「ちゃんとした文学ではなくて、子供向けの手抜き小説」といったニュアンスがどうしてもつきまとう。だけど、子供のために書かれる小説こそ、最高のものでなければいけないんだよね。思えば、江戸川乱歩が子供のために怪人二十面相を書いたり、ジュール・ヴェルヌがさまざまな冒険小説を子供のために書いたように、一流の人間もちゃんとジュブナイルに取り組んでいたりするのだ。ただ、大人という「広く世間に作品の善し悪しを評論して回る連中」の多くがジュブナイルを読まないがために、どうしても世間一般で知られない、というところが悲しい。また正直いって、ろくでもない小説がごまんとあることも確かだ。

乙一という人。実はまだ2冊ほどしか読んでないんだけど、この人、天才であります。近年、芥川賞だのをとって偉そうに構えている作家はごまんといるけれど、そいつらの中で心底天才と感じた人は、中上健次以降一人もいない。はっきりいって、そういう中央文壇の周辺で「おお、これは天才だ」と感じることなんてほんっと久しくなかった。——ところが、まさかこんなところで出くわすとはね。だいぶ前から買ってあって、ほったらかしにしてあった「平面いぬ。」を読んだのが先日のこと。天才であることを思い知らされるには、一冊で十分でありました。

天才ってのは、つまりは「努力」とか「知識」とか「経験」とかいうものをすっとばしたところのものを作り出してしまう人間のことだろうと思う。だから、僕は「天才でなくても、天才以上のものは作れる」と思ってる。天才であっても駄作しか生み出せない人間もいるだろうし、天才が生み出した作品を超えるものを凡人が作ることだってきっとある。——ただ、「天才でなければいることを許されない場所」というのがあるのも、また確かだろうと思う。乙一は、そういう場所にいる。そういう場所から小説を書き送ってくる。

分別ある大人は、こういう天才の新人に出会うと、さまざまに言葉を弄して否定しようとする。多分、「そんな天才なのか?」と思ってインターネットで検索とかすると、絶賛する人間の多くは十代の子供で、分別ある大人はたいていが「なかなかとは思うが、まだまだ未熟だな・・」的にいっていることが多いだろうと思う。だから、あらかじめいっておく。大人の目を信じてはいけない。特に、天才になれなかった(けれど自分ではどうしてもそれを認められない)大人の目は。僕も含め、大人は天才の生み出した分類不能な作品を、なんとかこじつけて既存の枠にはめ込もうとする。「○○は、よく読めば××の真似だ」とか「△△は、□□の影響が見られる」とかいって、いかにも自分の方が高いところから見ているかのような顔をして。だから、乙一が天才かどうか、あなた自身の目で確かめなさい。彼に関する限り、大人の言はすべて信用できない。僕も含めて。

彼の作品には、代表作というものはないと思う。なぜなら、書いたもの全てが「今まで存在しなかった小説」だから。とりあえず短編集ということで「平面いぬ。」をあげておいた。中でも「はじめ」は、なんともいえない味わいがあっていい。ただ、どれも小品なので、その才覚を十二分に感じられるものとしては、やっぱりデビュー作の「夏と花火と私の死体」をあげておきたい。ていうか、この2冊しか読んでないんだけど(笑)。ほら、やっぱり大人になるとさすがに「角川スニーカー文庫」とか買うの恥ずかしいじゃない? これらは集英社文庫なので、大人でも照れずに買えるのだ。——とりあえず、出てる他のやつも早いとこ買ってこないとな。

ちなみに、デビュー作の「夏と花火と私の死体」は、作者16歳のときの作品であります。

公開日: 月 - 2月 9, 2004 at 06:09 午後        


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