おすすめ本(18) 「博士の愛した数式」(小川洋子)


本屋の店員さんがお勧めする本の第1位になった小説であります。しみじみとせつなかった。

とりあえず、一通りのジャンルでなんとなくおすすめを書いたので、これからは読んだ本で「これはおすすめだ」と思うものを適時書いてみようと思う。

で。嫁がインターネットで「これ、読みたい!」と見つけてきたのが、この本。全国の本屋の店員さんが自分で読んで「これはおすすめだ!」というのを投票するのがあるらしいんだけど、それの最初の第1位を獲得したものなんだそうだ。——僕は、「ベストセラー(要するに売れてるもの)」とか「○○賞受賞(要するに同業者が仲間誉めしてるもの)」ってのにはあんまり食指が動かないんだけど、こういう「実際に読んだ読者たちが選んだ」というのには、やっぱり興味がわく。結局、本(特に小説)なんてもんは、「読んで面白いかどうか」がすべてなわけで、それだけ大勢が推薦するなら、下手な小説の大家が集まって決めた賞なんかよりはるかに面白いだろうという気がするんだな。

で、「博士の愛した数式」。これは、数学者と、その家に派遣された家政婦と、その息子の物語である。といえば、「あー、なるほど。その学者さんと若い家政婦さんとの恋愛ね」と想像するだろうけど、そういうわけではない。というより、恋愛は絶対に起こらない。起こりようがないのだ。なぜなら、博士は、恋愛ができない体だから。彼の記憶は、80分しか保たない。過去の自動車事故により脳に損傷を受け、長い間物事を記憶することができなくなってしまった。だから、恋愛などそもそも不可能なのだ。どんなに愛した人間でも、次に遇うときには初対面の人間になってしまうのだから。

記憶を補完するため、彼の上着には無数のメモがクリップで留めてある。彼は朝起きて、上着を見て無数のクリップがあるのを不思議に思いながらそれを読む。真っ先に目にとまる部分には、自分自身の筆跡でこう書かれている。「私の記憶は80分しか保たない」と。彼は、毎朝、目覚める度に、自分が重度の障害を持った人間であることを知らされ愕然とする。そして彼の一日が始まる。毎日逢う、だが初対面の家政婦と逢い、前から予定されていた、だが突然の予定にメモで気づき、毎日続けていた、だが初めて見る数学の命題の続きを解く。——人間の人生というのは、「記憶」によって作られるのだ、ということを改めて気づかされる。よく、安直な記憶喪失を扱ったドラマや小説はあるけど、記憶がないということを果たしてどこまで理解して作られているのか、はなはだ疑問なものばかりだ。この小説は、「80分経過すればすべては消えてしまう」という切なさを実に淡々と映し出していく。

この物語に、大事件や劇的な展開はない。奇跡的に博士の障害がなくなるような展開もないし、劇的なハッピーエンドもない。物語は終止、淡々と静かに進む。声高に叫ぶことも、激情に駆られて泣き叫ぶこともない。熱い抱擁や色恋沙汰もまったくない。にもかかわらず、これは美しく純粋な愛の物語なのだ。彼女と博士の敬愛、彼女と息子の親子の愛、そして博士と10歳の息子との友情。最近、世界の中心で愛を叫ぶような物語が流行ってるようだけど、愛は叫ぶものではない。そして、男女の性愛だけが愛でもない。恋愛はそこになくとも、これはまぎれもなく最上の愛の物語なのだ。

この博士と彼女とその息子の交流を縦糸とするならば、そこに横糸として差し込まれるのが「数」の世界である。博士にとって、他人との唯一のコミュニケーションの道具は「数字」だった。彼は初対面の彼女(毎朝、彼は初対面の彼女に遇うのだ)に対し、「靴のサイズは幾つだね?」「誕生日は?」と数に関する質問をする。そしてその数字がいかに素晴らしいかを彼女に解く。それは数というものに対する純粋な愛情に溢れている。素数。友愛数。完全数。フェルマーの最終定理。オイラーの公式。そうしたものが次々と登場し、ごくありふれた一つの数がいかに奇跡に満ちたものかを示してくれる。

これが、いい。そうなのだ、数学というのはかくも美しくドラマティックなものなのだ。数の中には、この世のすべてがあるのだ。そのことを博士は切々と説いていく。少しずつ数字に興味を持ち始めた彼女が、「1から100までを計算する方法」を毎日考え続けていくシーンがあるのだけど、毎日ごちゃごちゃと乱雑で無意味に並ぶ数字や数式を書き連ね続けていたものが、あるとき突然、不意に一つの実にシンプルで美しい数式によって置き換えられる。その心理描写が秀逸だ。

ただ、惜しいなあと思ったのは、小川洋子さんの書く数学が、すべて知識と記憶でしかなかった点だ。友愛数も完全数も、それは美しいものだけれど、ただの数に関する知識でしかない。そして、それは結果であって、そこに至る過程こそが数学なのだ。先の「1から100までを計算する手続きを考えてそこに至る過程」こそが数学の真髄なのだ。その部分が、博士に関する限り、ほとんど描写されず、ただひたすらに一点を見つめ考え続ける姿の描写しかなかったのが惜しかった。でもまあ、これは家政婦の彼女から見た物語であるのだし、ある意味やむを得ないのかも知れない。

そして。これだけでも十分に楽しめる物語となるのだが、これに加えてもう一つ、重要なファクターがある。それは、「江夏豊」である。そう、この物語では、阪神タイガースと、そして江夏豊が第3の軸となっている。すばらしい。かの、延長10回までノーヒットノーランを続け、10回裏、自らサヨナラホームランを打ち、勝利者インタビューで「野球は一人でも勝てる」と豪語した伝説の試合もちらっとだけ登場する。小川洋子さんは、実は僕と同い歳だ。僕らの世代にとって、プロ野球のヒーローは王でも長嶋でもなく、江夏豊なのだ。

というわけで。静かでせつない人生の物語を、そして美しき数の物語を、更には身が震えるほどにカッコいい阪神タイガースの物語を読みたいという人は、今すぐ本屋に走りなさい。

公開日: 金 - 6月 18, 2004 at 11:17 午前        


©