おすすめ本(12) 「誰がために鐘は鳴る」 (海外文学?)
いわゆる「世界の文豪」と呼ばれる人だと、どうしてもヘミングウェイになっちゃうんだな。それに今のこの時代って、「失われた世代」に似ている気もするしね。
「世界の文豪」といってまず名前が浮かぶのは、やっぱりドストエフスキーとトルストイだろうと思う。どっちもすごいとは思うよ。特にドストエフスキーは化け物だよ。しばらく前だけど、久しぶりに読み直そうと「貧しき人々」を手にとったら、途中で涙がボロボロボロボロ止まんなくなってやめた記憶がある。その他に、個人的に推したいのは、ソルジェニーツィン。「ガン病棟」の「私たちはいつまでアンナ・カレーニナを読まなければいけないのですか・・」の下りは背筋がぞぞぞぞっとするぐらいに胸打たれたよ。
こういう「昔の文豪」という人はたくさんいるけど、そうした人の中で、彼らから少し離れたところで超然として聳える高い峰がヘミングウェイだと思う。既に彼は古典ではあるけれど、でもドストエフスキーなどとは相容れない感じがする。彼らを古典文学とするなら、ヘミングウェイやスタインベック、マルローなんかはアンチ古典文学じゃないだろうか。古典でありながら、いわゆる古典文学とは相反する味がする。
ちょうど二十歳ぐらいの頃だったかなぁ、「暗い文学」にのめり込んでいた時期がある。レマルクの「西部戦線異常なし」だのミラーの「南回帰線」だのスタインベックの「怒りの葡萄」だのカポーティの「冷血」だの、読んでも救いのない結末の物語。ある意味、ニヒリスティックに陥りがちな年頃だったんだろうな。そんな中、完璧にのめり込み、そしてこうした世界から救い出してくれたのがヘミングウェイだった。
一応、一番好きなものとして「誰がために・・」をあげておいたけど、彼のすごいところは、まず「日はまた昇る」を書き、それから「武器よさらば」を書き、更に「誰がために・・」を書いたところにある。この3作は、決して切り離せないものだ。「日はまた昇る」で、いわゆる「失われた世代」の投げやりで自暴自棄な生き様を描き、人生なんて無意味だと切り捨てたはずなのに、彼はそこにとどまることができなかった。「武器よさらば」では、人間は無力であるという、ある種の諦観にあったとしても、それは悲しいことだと変わってきている。そして「誰がために鐘は鳴る」では、例え人間が、人生が、人類が、すべてこの世のものが無意味であり無価値であったとしても、自分は愛するもののために戦う、そのためにこの命はある。そう断言するところにまで到達する。その変遷する心が、魂のサルベージが、そのままこちらの魂を救うのだ。彼とともにオレの魂はサルベージされ、再び浮上した。その時、確かにそう思えた。
爾来、ヘミングウェイは、数多存在する古典的文豪たちの中でも別格の存在となっている。人間は、変遷するのだ。「神は死んだ」と言い切った世代。信ずるものをすべて失った世代。そこから彼の魂は復活した。たとえすべてのものが信ずるに足らぬ偽りだらけの世界であったとしても、ただおのれ一つだけで生きる意味はつかみ取れる。いや、例え意味などなかったとしても、オレは生きる。そこまでオレを引っ張ってきてくれたのは、ヘミングウェイだった。
——今の時代は、この「失われた世代」に似ている。投げやりで、精神の支柱を失った時代。生きることにも死ぬことにも「へっ、意味ないね」と嘯く人間たち。そこに、「意味がない? それがどうした!」と自信を持って断言できる人間はいるだろうか。無意味だろうが、無価値だろうが、人間、生きるのだ。そう思えるだろうかあなたは。魂のよりどころを失いかけたとき、変な宗教になんか走らずヘミングウェイを読みなさい。小説には、つまらぬ宗教などより数百倍も力があるのだ。
公開日: 金 - 11月 21, 2003 at 04:44 午後