おすすめ本(6) 「堤婆達多」 (文学?)


これ、「デーバダッタ」と読むです。ダイバダッタの方が知られてるかな?
限りなく読むのがつらい、が、救われる小説です。

どうも「純文学」という言葉がキライだ。いや、他に手頃な用語がないから別に普段も使ってるんだけど、「純」な文学とそうでない文学があるみたいでなんかイヤなのだ。なもんで、とりあえず「文学」ということで、近代日本(これは大正時代)の作品からであります。そうそう、前に書いた「あらすじで読む日本の名著」なんかで取り上げられそうなジャンルであります(笑)。

中勘助という人、おそらく知らない人の方が多いんだろうなあ。夏目漱石の弟子といわれるけれど、中央の文壇とは縁を切り、一人静かに文学の道を歩み続けた人です。現在、岩波文庫から主な作品が出版されている。非常に剛な文体。漢文調の実に厳格なる文章スタイルで、読んでいて思わず端座する感じ。幼少の頃を描いた「銀の匙」が有名だけど、個人的には小説の方が圧倒的にすごいと思う。

「堤婆達多(デーバダッタ)」は、かのゴータマ・シッドハールトハ(一般にいうシッダルタ、平たくいえば仏陀)のライバルで、彼に唯一反逆した密教の開祖であります。中勘助は、彼を仏陀打倒に執念を燃やし一生を費やす、何ともイヤな人間(・・・)として描いている。彼は仏陀に嫉妬し、ひたすら仏陀の歩んだ道を追いかける。彼の妻に恋慕し、仏陀に勝つという目的だけに彼女の心を奪おうとする。仏陀に勝つためだけに、仏陀の教えを否定し、自分で新たな宗派をたてて彼に挑戦する。

だが、相手は仏陀なのだ。そう、争いとか嫉妬とか業とか、そうしたすべてのものから超越してしまった、人間を超えてしまった人間なんだよ。それに比べ、堤婆達多は悲しいくらいに人間なのだった。彼は、仏陀の妻を誘惑しようとしていたはずなのに、心から彼女を愛してしまう。そして仏陀から奪い取った彼女は、彼を残し死んでしまう。必死になって彼に対抗し挑戦すれども、仏陀はそんな対抗意識などというちっぽけなものから解脱した境地に入ってしまっている。どんなに死にものぐるいになっても、仏陀は既に現世を超越し、彼の存在すら気づかない。

あまりにむなしい挑戦。だけど、なんだろう、読めば読むほど、この堤婆達多という醜い人間のあらがう姿に悲しくなってくるのだ。堤婆達多は、オレなのだ。そうなんだ、オレたちは絶対に仏陀ではないのだ。愛する彼女の死に号泣し仏陀への復讐を誓う堤婆達多。妻が死んでも悲しみすら見せず仏の道に精進する仏陀。それはそうだ、もはや仏陀は愛情や憎しみなどとは無縁の境地に達しているのだから。確かにそういわれればそうなのだけれど、それが聖者というものなのか。この狂ったように泣き叫ぶ堤婆達多こそが、人間の姿ではないのか?

仏陀の聖者としての姿を克明に描くほどに仏陀は我々から遠ざかり、そして憤怒の鬼と化し復讐の道をひた走るほどに堤婆達多は我々の身近な存在になっていく。仏陀は、勝者であり、正しく、強い。堤婆達多は、敗者であり、誤った道を進む弱者だ。だが、なぜ勝者たる仏陀はこんなにも遠い存在に見えるのだろう。なぜ敗者であり悪である堤婆達多にこんなにも涙するのだろう。

中勘助の小説は、どれも自己に対する厳しさで貫かれている。「菩提樹の蔭」という短編小説も衝撃だった。これは、天才的な技術を持つ彫刻師の話。彼には愛する女性がいた。だが、思わぬことで彼女を失ってしまう。どうしても彼女を忘れきれない彼は、亡き恋人の彫像をきざみあげ、この像に彼女の魂が還るよう祈る。神は、この「神をも恐れぬ願い」に怒り、彼の願いを聞き届ける。——このくだりがすごい。像に彼女の魂が戻り、彼女は死後の世界から戻って復活を遂げる。だが、その奇跡を彼は「神罰」として描く。

中勘助は、あまりに自分に厳しすぎた。そう思う。作品からは、彼の厳しさがひしひしと伝わってくる。そして自分に厳しいからこそ、かすかに感じる人へのやさしさのようなものがなんともいえずにしみてくるのだ。堤婆達多は、こんな文章で終わっている。

「もしそこに我々に救いがあるならば、堤婆達多こそまことに救われるであろう。堤婆達多が救われずば、我々の誰が救われるであろうか。」

公開日: 月 - 11月 10, 2003 at 07:28 午後        


©