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まーぱの掲載エッセー



MacPower (94-04) Essay

「年をごまかして何が悪い?」

最近、「本当の年齢を教えろ」という圧力が日増しに高まってきている。MacPowerなんかにプロフィールが出る度に、年齢は24歳だの、職業はカヌーイストだの(この間「職業:ナマズの調教」と書いたら、さすがに消されていた)好き勝手に書いていたもんだから、「おまえの本当の職業は何なのか。年齢は何歳なのか。血液型は何型か。そこんとこを、きちっとせいっ」というお叱りをいただくようになった。困ったもんだ。

 一体いつ頃から、プロフィールに「血液型」だの「星座」だのが載るようになったんだろうか。あれには、一体どういう目的があるのだろう。僕はアイドルとか千葉麗子とかいうもんじゃないんだから、そんなもんを公開したって仕事が増えたり本が売れるわけがない。職業ぐらいは、まあ、フツーの仕事をしてる人は必要かも知れないけど、僕には特に職業なんてないし(「何をやって金を稼いでいるか」をもって職業というなら、これはもう、「ごますり」しかないだろう)。この一億総紫門ふみ化現象はいつ頃から始まったのかね。

 プライベートな情報がどう悪用されるかという問題もあるのだけれど、それ以上に気になるのは「どーでもいい情報がその人の価値判断の基準になっちゃうかも知れない」ということ。肩書きだの社会的地位 だのが全然ない僕は、そーいうのが一番怖いのです。

 僕の能力は、僕の書いた本で判断して欲しい。僕の人格は、僕を見た印象で判断して欲しい。間違っても年齢星座血液型名前の画数なんかで判断して欲しくはない。「部下の性格把握に血液型性格診断を導入している」なんて会社があっちゃたまらないのである(実際、あるんだってよ)。そんなのは、陸軍中野学校で終わりにして欲しいのだ。

 その人がどういう人間かを判断するとき、その基準にはいくつかの種類があると思う。まず、その人の見た目ね。次に、肩書きや役職といった飾り。そして、能力や性格。見た目や肩書きは、誰でもすぐに、いいか悪いか判断できる。だけど、能力や性格は、そうはいかない。「自分に人を見る目があるかどうか」にかかってくるからだ。自分の判断力に自信のない人は、判断の材料となるものを必死になって集める。相手の血液型がわかると、「A型か、よし、A型は几帳面 な性格のはずだ」と納得できる。−−ひょっとして、やたらと血液型や星座にみんながこだわるのは、そーゆーことなんじゃないだろうか。

 とゆーわけで、そんな連中のために自分の個人情報を人前にさらす気は全くないので、当分の間、僕の年齢は「24歳」でいようと思う。残念でした。



MacPower (94-09) Essay

取っ手のない湯呑み

2年ほど前から気に入って使っている湯呑みがある。以前、盛岡のユーザー会に呼ばれていった折りに買い求めたものだけど、厚手の焼き物で、まん丸いボールのような形をしている。つまり、ソフトボールの上部をすぱっと切り、中をくり貫いたような形をしているわけ。かなり大振りで、大型マグカップ並みの量 が入るところがいい。おそらく茶道などで使う目的で作られたのだろうけど、僕はこの中に煎茶から紅茶、コーヒー、オレンジジュース、何でも入れて飲んでいる。

 この湯呑みを愛用するようになって気がついたことがある。これを使って飲むと、コーヒーでも紅茶でも「ながら族」にならないのだ。普通 、コーヒーなんてものは、何かをしながら飲んだりすることが多い。僕は1日30杯ぐらいコーヒーを飲む。Macの横に湯気の立つコーヒーカップが置いてないとイライラするくらいだ。

 ところがこの湯呑みを使うと、一旦仕事を中断し、ずずーっとコーヒーを飲んでは窓の外を眺め「ああ、そろそろ季節も夏ですねえ」といったご隠居状態になってしまうのだ。

 その原因はまもなく判明した。この湯呑みには、コーヒーカップのような取っ手がないためである。かなりの量 が入るので、熱いコーヒーを入れると両手で注意深く持たないといけない。両手でゆっくり口に運ぶと、自然に背筋も伸びてしまい、コーヒーを飲むという行為に集中してしまうのである。取っ手のあるコーヒーカップでは、片手でカップを口に運べるため、仕事をしながら飲む「ながら族」になってしまうのだ。

 欧米で「コーヒー道」が生まれず、日本で「茶道」が生まれたのは、ひょっとして日本の湯呑みに取っ手がなかったからではないか−−と最近僕は真剣に考えている。

 この「片手」と「両手」の違いというのは、意外に大きいのではないだろうか−−そう思い、注意し手回りを見渡してみると、あったあった。「キーボード」と「マウス」だ。

 僕は、仕事で原稿を書くときは結構真剣だ。BGMの音楽も鳴らさないし、場合によっては電話が鳴っても出ないこともある。ところが、Macで絵を描いているときは、結構ジャンクフードを食べながらだったり、雑誌をめくりながらだったりする。その違いは、「片手」と「両手」にあるのかも知れない。キーボードでテキストを入力するときは、完全に両手がふさがっている。ところがマウスだけの操作の場合は片手しか使わない。そう考えると納得がいくのだ。そういえば、同じ絵を描く場合でも、油絵のときは両手を使うのでながら族にはならない。うーむ、この説はかなり信憑性が高くなってきたぞ。

 また掌田がバカなことを考えてるなと思ってるでしょ。そりゃ、湯飲みに取っ手があろうとなかろうと世の中たいした影響はないさ。だけど、これを「ある作業が人間に与える負担を軽減すると、作業の質が低下する」という具合に考えてみたらどうかな?

 その昔、Macが出て間もない頃に、こんな記事を読んだ記憶がある。−−米国の大学でMacを導入したところ、学生の書く論文の質が低下した、というのだ。その頃は「どうせMS-DOSユーザーのひがみだろう」と思っていたが、はたしてそうだったのだろうか。

 自分自身に照らして鑑みるに、FEPが優秀になり、変換効率が飛躍的に向上するにつれ、原稿の誤字脱字が増えてきているような気がする。それまで自分自身がチェックしていた部分をコンピュータに任せてしまうようになったためだ。そういえば、昔は漢字の送り仮名一つとってもずいぶんと気を使ったものだ。例えば「行なう」は絶対に「行う」とは書かなかった。たとえ編集で一律に直されてしまうとしても、それが執筆者として自分自身に課した最低限のモラルだった。ところが最近ではふと気づくと平気で「行う」と書いている。ATOKがこう変換してしまうためだ。

 世の中には、ひょっとして「便利になってはならない部分」というのが存在するのかも知れない。−−最近、僕はFEPをATOKからことえりに戻した。大変使いづらいが、しばらくはこれでがんばってみようと思う。今まで大半をコンピュータに任せていた「文章を書く」という部分を、もう少し自分の領域に取り戻してみたいのだ。もちろん、Macの横には取っ手のない湯飲みが置いてある。あわせて、インスタントコーヒーをやめてペーパーフィルターを使うことにした。いつまで続くかわからないけれど、コーヒーも僕にとっては人任せにできない部分なのだ。

(※――追伸。2000年1月現在でも私はずっと「ことえり」を使い続けております。 ATOKは一応入っていますが、まず使うことはありません。また、コーヒーも未だにペーパーフィルターで、このエッセーを書いて以来、インスタントコーヒーは全く買わなくなってしまいました)


MacPower (95-06) Essay

「写すんです?」

「カメラ・マニアですか?」と聞かれることがある。大抵の場合、ぼくは「いいえ」と答える。どうしていきなり僕のような人間にそんなことを聞くのかと不思議でいたのだが、最近になってわかった。編集者やライターの中には、確かにカメラ・マニアが多いのだ。単に仕事で必要だからという枠を越えてカメラに愛着をもつ人は随分と多い。

 僕の場合、愛着はあるが、カメラそのものには案外と無頓着である。一応、愛機はライカなのだが、これは重たいからといってあんまり持ち歩かない。山登りなどで持っていくのは、結局「写 るんです」だったりする。

 最近では軽くて小型のカメラもあるのだが、どういうわけか僕の場合、実際に使うのは「ライカ」か「写 るんです」だ。なぜ、こうなってしまうのかと常々疑問に思っていたのだけど、ついこの間、不意にその理由に気がついて愕然とした。

 これらのカメラしか使わない理由は、「シャッター」にあったのだ。信じ難いことだが、「写 るんです」のシャッターはとても感触がいいのである(こら、そこの君、笑うな!)。こんな莫迦げたことをいうことからも、僕がカメラ・マニアでないことがわかるだろうけど、しかし他の多くのカメラと比べても、「写 るんです」はシャッターの感覚がいい。一体なんなのだ、これは?

 その理由は非常に単純なものだった。つまり、「写るんです」もライカも、メカニカルシャッターだったのである。そして、それ以外のほとんど全てのカメラは電子シャッターなのだ。一般 のカメラのシャッターは、シャッターではなくて電気の接点である。けれど「写るんです」やライカは、押すことで機械的に動作している。

 僕は、あの電子シャッターというやつが大嫌いだ。写すときの手応えが全くないからだ。確かに、最近のカメラは高機能化していて、「写 るんです」なんぞとは比較にならないくらいきれいな写真がとれる。しかし、僕が求めているのはきれいな写 真なんかではないのだ。僕は、写真をとることを楽しみたいのだ。更にいうなら、シャッターを押した瞬間のかすかな音と振動を楽しむためにカメラをいじり回すのである。できあがった写 真なんぞはどーだっていいのだ。

 プロとアマチュアの違いは、実はここにあるように思う。プロは結果 オーライの世界だ。いい写真をとることが全てに優先される。アマチュアは、結果 ではなく過程を楽しむ種類の人間たちだ。だから、結果よりも、その過程をいかに楽しめたかのほうが重要なのだ。

 その点では、ライカはやはり素晴しいカメラだ。完全マニュアルであり、ピントもしぼりも全部自分で調整しなければならない。「なんて面 倒な」と思うようなら、あなたは既にアマチュアではない。過程をはしょって結果 だけを求めるなら、それはプロじゃないか。実力をもたない、形だけのプロ。

 僕の写真はピンボケだ。露出もあってないし、写した写真の大半は真っ黒だったりうすぼんやりとしか写 っていなかったりする。けれど、それが楽しいのだ。「あちゃー、また露出を間違えちゃったな〜」と頭を掻くのも楽しみの1つなのだから。アマチュアには「失敗する楽しみ」という素晴しい楽しみが用意されている。

 そしてごく稀に、まるで何かの偶然のように素晴しい出来映えの写 真が写っていることだってある。それこそが、アマチュアにとっての「いい写真」なのではないか。きっとそこには、効率とか生産性とかいった言葉では現われない「何か」が宿っているに違いないと思うのだ。

 …さて。翻って考えてみて欲しい。−−あなたのMacはアマチュアですか?


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