このおしぼりについて、前々から疑問に思っていたことがあった。それはおしぼりのパッキングである。
おしぼりというやつ、大きく分けるとタオルのものと、使い捨ての二種類がある。そして、タオルおしぼりの中には、きちんとパッキングしてあるものがあるね? あれが前から不思議でならなかったのだ。
だって、あのおしぼりのタオルは、回収して洗って殺菌してまた使っているわけでしょ? それをわざわざああやってパッキングするというのは、大変な手間とお金がかかると思うのだ。なんて無駄な…とぼくは前々から思っていたのだった。
もちろん、理由はなんとなくわかる。「いかにも新しい感じにして清潔感を出す」ということなのだろう。
ただ殺菌しただけでは、なんとなく清潔感が出ない。そこで、回収したおしぼりをパッキングするとあら不思議、不潔感がなくなってしまうのである。まるで「私は繊維工場から出荷されたばかりなのよ」という処女状態になってしまうのだ。実体は何百何千という男女にもまれしぼられ辱めを受け続けてきた海千山千の遣り手タオルであったとしても、パッキングするだけで楚々とした令嬢タオルに変身してしまうのである。
そう。重要なのは、実際に清潔かどうかということではなく、清潔に感じるか、ということなのだ。
最近は、病的に清潔感を気にする人が多くなっている。「清潔さ」ではなく、「清潔感」を気にするのだ。
たとえば、最近のヒット商品の中に「うんこの臭いを消す薬」というのがある。これが、高校生あたりにじわじわ浸透しているらしい。ペット用などでは、「おしっこの臭いを消すエサ」なんてのが前からあったが、まさか人間様がそんなものを呑むようになるとは思わなかった。これはもう清潔とかいう問題じゃない。もっと別の次元の問題だ。
そういえば、最近のデパートなんかのちょっとしゃれたトイレでは、紙の使い捨ての便座カバーなんかが備え付けられるようになった。なんだってあんなものがつくようになったのか。そのほうが清潔だから、というのは当たらない。これはあくまで気分の問題なのだ。トイレの便座というのは、雑菌はそれほど多くはない。人間の体のほうがはるかに多いのである。彼女とキスするより便器舐めてる方がはるかに衛生的なのだ。
自分が生き物であることに気づかない人間が増えている。いや、生き物であることをいやがる人間が増えている−−そう感じる。清潔感をやたらと気にするのはそのせいじゃないだろうか。
無機質は臭わない。汗もかかないしおしっこもしない。人間は汗もかくし臭い息も吐く。髪をかけばフケも落ちるし、風呂に入らなきゃ垢もたまる。自分がそういう生き物であることがイヤだと感じている。彼らは確かにそう感じている。
君のパソコンは手垢にまみれているだろうか。それとも指紋一つないくらいに磨きあげられているだろうか。もちろん、不潔であるより清潔であるほうがよい。だがそれが清潔を一歩越えてしまったとき、ぼくはそこに何か寒いものを感じるのだ。君は感じないか? それとも、そう思うぼくに寒いものを感じるだろうか?
休みの日にあたり構わずおならをカマして家族からヒンシュクを買っているおとうさん。ぼくはそんなあなたが好きです。
このビルでは、いつも来る度に行き先がわからなくなるのだ。「あれ? あの編集部は何階だっけ?」と思ったときには、もう手遅れである。行くべき階が何階か、もうわからなくなっている。
ぼくは数字や固有名詞を記憶するのが大の苦手だ。パソコンの住所録で電話番号を調べ、受話器を取り上げてダイヤルしようとしたときにはもう番号を忘れているという「超ハムスター頭」である。自慢じゃないが、たまにしか来ない編集部のある階数なんてとても覚えちゃいられないのだ。だから階数を忘れてしまうこと自体は不思議でも何でもない。問題はその後だ。
階数もうろ覚えでよくわからないまま、ぼくはとりあえずエレベータホールに向かう。そしてやってきたエレベータに乗って階数ボタンを見る。するとその瞬間−−ぼくの頭の中に突然行くべき階数がひらめき、何階へいけばいいかわかってしまうのだ。
これは、実はPCfanがあるビルだけではない。大きなビルに入っている会社で、たまにしか顔を出さないようなところに出かけると、いつもそうなのだ。エレベータに向かうまでは行くべき階数があやふやなままなのに、乗った瞬間、階数がわかるのである。一体これは何なのだろう?
今日、またまたこのビルにやってくる用事があったので、ぼくはこの謎を解明しようと勇んで出かけた。そしてエレベータに乗り、階数ボタンをじっと見ているうちに、その理由がわかったのである。
僕は、行く先の階数を、数字ではなく、ボタンのある位置で暗記していたのだ。ぼくがこのビルでいつも間違えそうになるのはマック系雑誌の編集部なのだが、この編集部は9階にある。そしてエレベータの9階ボタンは、階数ボタンの一番右上にあるのだ。
ぼくは「9」という数字ではなく、「一番右上のボタン」というイメージだけを覚えていたのだ。だからエレベータに乗るまで階数がわからず、ボタンを見た瞬間にわかったのだ。
人間ってのは、きっと固有名詞を覚えられないようにできているのである。「それはお前がハム頭なのを正当化しようとしてるのではないか」と思うかも知れないが黙れ黙れ。ほとんどの人というのは、年齢とともに記憶力が低下するのが当り前なのだ。恋人の頃は相手の星座から血液型まで覚えているのに、結婚して3年もすると結婚記念日も忘れるようになり、10年もたてば子供が小学校何年かもウロ覚えとなり、30年もすれば朝飯を食ったことさえ思い出せなくなる。それが人間というものなのだ。
そして低下する記憶力を補うために用意されているのが「イメージの記憶」なのではないか。
例えば−−。君は、マックユーザーというものが、ほとんど固有名詞を覚えていないことを知っているだろうか。電話でマックの使い方などを説明しているシーンなどに出くわすと、そのことがよくわかる。
「えーっとさ、左から2番目のメニューの真中あたりに、環境設定がどうとかってメニューがない? いや、そんな感じのやつさ。ある? じゃ、それ選んで。そしたら、ウィンドウの左上のほうに、なんか保存の設定っぽいボタンがない? ある? そしたら…」 ほとんどの場合、マックユーザーはちゃんとした固有名詞を使わない。「…みたいの」「…っぽいやつ」という。それでたいていうまくいってしまうのである。
そう。彼等は文字など読んでいないのだ。「なんとなくこのへんにあるやつを押したらこうなるみたいだ」というイメージだけでコンピュータを動かしてしまっているのである。マックはほとんど奇跡で動いているのだ。
そうしてマックはますます使いやすくなっていく。マックのユーザーはますます記憶力を使わずにすむようになり、そして彼等はまっしぐらにボケていくのである。
そこは安くておいしいことで結構知られている店のようで、行ったときもすぐに満員となり、入り口にはお客が何人か藤椅子にすわって待っていたりしていた。つまりまあ、そのくらい人気の店ってわけね。そこで板前さんからおいしいところを聞いたりして食っていたのだけど…。
値段の割には確かにおいしかったのだが、一つだけどうも引っかかってしまったものがあった。それは「いくら」だ。どうもそのいくらは異常に歯応えが良すぎるのである。外側の皮がやたらと丈夫で、ぼくは危うく喉に引っかけそうになったくらいだった。
その時、パッと頭をよぎったのは、以前PCfanのどっかに載っていた「人造いくら」というやつである。わりと有名なお店だからまさか…とは思ったのだけど、どうも今から思うとそうらしい。
寿司なんて生で食べるからいかにもバレそうな気がするけれど、知人の自称人工いくら評論家(笑)によると、人工のいくらは生で調理するものでないと使えないらしい。熱を通すと、本当のいくらは白く変色するけれど、人工のいくらは赤い液がにじみ出す。だから加熱調理するものではすぐに化けの皮がはがれてしまうのだ。もし君が「これはひょっとして?」と思うものに出くわしたなら、お茶か何かに一粒入れて割ってみれば、すぐにわかるわけだね。まあ、それはおいといて…。
考えてみると、なんで人工のいくらだと「だまされた!」と感じるのだろう。ま、そう思ったオレがいうのもなんだけど、本物のいくらと人工のいくらの違いって何だろう? いくらの栄養価がどのくらいか知らないけど、栄養をとるためにいくらを注文することはあるまい。「本物と比べ○○カロリーも損をした!」と怒る人はまずいない。とすると、あの歯応え、舌触り、つぶしたときの「ぷちっ」という感覚、それを味わいたくて注文する、ということなのだろう。
とすれば、問題は人工かどうかということではなく、「人工ものの感触が天然ものと同じでない」ということであるはずだ。人工のいくらが、本物と歯応え、舌触り、味などで全く見分けがつかなければ、「人工でよい」ということになるはずだ。いや、そればかりか、「本物よりいい」なんてもんもいずれは登場するかも知れない。そうなってもおかしくはない。
ところが現実問題として、食べてるときは全く人工とはわからず「おいしいおいしい!」と満足して食べていたとしても、後で人工だとわかると、多くの人は(ぼくのように)怒りだしたりがっかりしたりするのである。これはもう、舌触りとか味とかいう問題じゃない。もっと別の問題だ。
そう。いくらを注文する目的は、ズバリ「いくらを食べた」という満足感を得るためなのだ。うまいかまずいか、食感がどうかなんてどーだっていいのだ。「オレはいくらを食べたんだ」と納得するためにいくらを食べるのである。なんか書いてる本人からしていかにも怪しい説と思ったりするけど絶対そうなのだ。「なんてばかばかしい」と思うだろうか? しかしそれと同じような例は、実際に世の中にゴマンとあるのだ。
ゲームとワープロしか使わないのに、わざわざ高いマックを買ってくる君。君はなぜ圧倒的に安いウィンドウズマシンではなくマックを選んだのか?「マックを使っている」という満足を得たいからじゃないか?
どんなにウィンドウズという人造いくらがよくできても、本物いくらであるマックにそっくりで見分けがつかないくらい高機能高性能になっても、それだけじゃダメなのだ。ニセモノでは「本物を所有している」という満足感は決して得られない。マック以外に「マックを使う」という満足感を与えてくれるものはないのだから。
−−さて。これを読んでいるウィンドウズユーザー諸君。あなたは、人造いくらで満足できますか?
が、しかし。−−買ってからわずか一ヵ月で、デジカメはほとんど使われなくなってしまった。さんざん撮影したのに、現在ハードディスクにちゃんと保存されているデータはわずか数枚である。出かける際にもっていくこともほとんどなくなってしまい、現在は本棚の隅でほこりをかぶっている。
どうもこういうことがぼくにはよくある。「こりゃあ便利だ!」と思って買ったものほど、あっという間に使わなくなってしまうのだ。電子手帳の類いなどその典型で、一時期は半年ごとに新しいのに買い換えたりしていたのに、今では手帳はただのメモ帳しか使ってなかったりする。デジカメにしたって、実はこれが二台目だったりするのだ。前に買って、どうせすぐに使わなくなることはわかっていたのに、「いや、あれは性能が悪かったから使わなくなったのだ、今度のは絶対大丈夫だ!」と無理やり理屈をつけて買ってしまったのであった。
しかし、なぜすぐに使わなくなってしまうのだろう。そりゃぼくが飽きっぽいというのは確かにある。けれど、ぼくだって何でもかんでも飽きるわけじゃない。長続きしているものだっていくつかある。
では、どういうものに飽きて、どういうものは長続きするのか。−−今までいろいろと買ってきた品々を思い返し、考えているうちに、ぼくはある種の規則性を発見したのだ。 人間は、簡単で便利なものほど飽きやすいのである。−−そんなバカな、逆じゃないかと思うだろうが、確かにそうなのだ。人は、複雑なものほど飽きない。簡単便利になるほど飽きやすくなるのである。全てが大変だった頃には、ちょっとぐらい面倒なことがあっても気にせずガンガンやっているのに、便利になってほとんど何も手間をかけないで済むようになると、昔はどうってことなかったような些細なことまで億劫でやる気がなくなってしまうのだ。
こういうことは結構世の中にある。自炊をしているときには、有り合わせのものをささっと炒めて夕飯のおかずにするくらいどーってことなかったのに、コンビにで弁当を買ってくるのが当り前になると、メシを炊くのさえ億劫になってしまう。標準のIMEで日本語入力をしているときはバシバシユーザー辞書を鍛えていたのに、ATOKにしたらほとんど辞書登録さえしなくなってしまう。−−君にも似たような経験はあるだろう?
時として、人は「便利である」ことが最終目的であると勘違いしてしまうことがある。より便利になったから新しいカメラを買うとしたら、それは間違いなのだ。新しいカメラを買う理由、それは「よりよい写真を撮影するため」であるはずなのだ。それを「便利になったからよいカメラなのだ」と錯覚してしまったとき、そのカメラは急速に存在価値を失っていく。
デジカメを含め今まで買った全てのカメラの中で唯一使い続けているのは、もっとも撮影が面倒なライカである。デジカメやAF一眼レフなどはあっという間にほこりをかぶってしまうが、こいつだけは今でもぴかぴかに整備されている。
ぼくはパソコンのライターなわけで、そういう業種の人間は逸早く携帯や情報機器に飛びつくもんだと思われているけれど、実をいえばどちらも持ってない。ぼくは、だいたい自宅で仕事をしている。だから携帯など必要がないのだ。もちろん、出かけることはあるけれど、「今すぐ連絡がとれないと会社が倒産するか莫大な損害を出すか誰かが死んでしまう」というような事態はまず絶対に起こらないので、留守番電話で済んでしまう。
電子手帳というのも、あれはしょっちゅう誰かに電話したり、自分じゃ覚え切れないくらいにスケジュールがびっしりな人間でない限り、なくても困らないものだ。ぼくはあちこち用もないのに電話をかけまくるような軽薄な人間じゃないし、自分が把握できないくらいに膨大な予定を組むこともない。だから普通の手帳があればそれで十分なのだ。
こういうことを常日頃いってたところ、とある人間から「だからお前はなかなかビッグになれないのだ」といわれてしまった。「今の世の中、一分一秒でも無駄にせず動き回る人間が成功するのだ、そのためにはいつでもどこでも連絡がとれて真っ先に駆けつけられる人間がのし上がっていくのだ」ということらしい。うーむ、そういうことかと思い、しばらく考えこんだのだけど…。
どうも、自分の回りの人間をずらーっと思い浮かべてみる限り、「携帯と情報機器をいつも持って、すぐに連絡がとれる人間」たちの中に、ビッグな人間はいないのである。いや、どちらかというと「業務版あっしー君」にされている人間のほうが圧倒的に多いのだ。誰からも「呼べばすぐ来るヤツ」と思われ、ことあるごとに呼び出されては便利屋としてタダで使い回される、そんな哀れな人間たちばかりなのである。
時間を無駄にしないために便利グッズを買ったはずなのに、よく考えると、そういうものを持っているがために、よけい時間を無駄にしていることの方が多いものだ。−−早く移動できるように車を買うと「悪い! 終電終わっちゃったんで向かえに来てくれ」なんて呼び出される。携帯を持っているが故に「おい、○○ってソフトが立ち上がらなくなっちゃったんだよ」と頻繁にお助けコールがかかり、何十分も説明をする羽目になる。インターネットに入り、嬉しくてアドレスをあちこちに触れ回ったために、毎日二時間、ほとんど無駄話のようなメールの読み書きに時間を費やさねばならない。それもこれも、君が便利な人間であるのが悪いのだ。
そう。人間というのは、便利なやつほどビッグにはなれないのである。なかなか使うことのできない人間のほうが重要人物扱いされる、それが世の中なのだ。誰だって、「いつでも乗れる誰でも乗せる」のイエローキャブ女を彼女にしたいとは思わないだろう。いつだって男が憧れるのは、遠くから眺めるだけで口をきくこともできないような高嶺の花のご令嬢なのである。なかなかお近づきになれない人こそ、大切な人なのだ。
夜中に女の子から「お・ね・が・い。 困ってるの、今すぐ助けに来て!」なんて鼻にかかった声で呼び出され、つまったトイレの修理なんぞをしながら「オレって頼られてるなー」などと思っている君。よーく覚えておくがいい。女の子は、本当に大切な人間には、安易にモノを頼んだりしないのだよ。