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PCfanの掲載エッセー その2



PCFan (96-09B) Essay

「お父さんの日」


この記事が出るのは残暑も過ぎ、そろそろ秋の風が吹くようになる頃だろうか。秋といえば、忘れてはならないのが「台風」である。「食欲の秋」とか「読書の秋」とかいう前に、ぼくにとっては秋は「台風の秋」なのだ。

 ほら、子供の頃って、台風が来るとなんだか心うきうきしたでしょ? 何だか怖いんだけど楽しくって、「あんたったらこの大変なときになに笑ってんの!」とよく母親に怒られたものだ。そう、ぼくは「台風好きの子供」だったのだ。ただし、最近はさすがに「うきうき」はしなくなり、ちょっとばかりさびしいのだが…。

 どうして台風というのは、あんなに心うきうきしたのだろう。単に「スリルを感じるから」だけだろうか。どうもそうは思えない。「危ない」からうきうきするというなら、災害全般についてうきうきするはずだ。しかし「雷が来ると嬉しくてしょうがない」とか「地震で地面がゆらっとすると快感を感じる」という人はあまりいない。うきうきする災害は、なぜか台風だけなのだ。

 いろいろ子供の頃の台風の記憶などを思い出している内に、うきうきしなくなったのは、独り暮らしを始めてからであることに気がついた。そしてそれに気づいた時、「なぜ台風があんなに心うきうきしたか」という疑問が不意に氷解したのである。

 台風が来てうきうきしたのは、お父さんのせいだったのだ。

 台風の日は、「お父さんの日」でもあった。なぜか台風がやってくると、お父さんは輝き出すのだ。普段は家族中から煙たがられ、どっちかというと厄介者扱いされている彼が、台風のときだけはなんと頼もしく、そして凛々しく見えたことか。そして頼もしいお父さんの姿が、なんだかぼくにはとても嬉しかったのだ。

 なぜか全国のお父さんは台風に強い。これが地震や雷になると、逆に慌てふためいて家族のヒンシュクを買うことも多いのだが、台風だけはどこのお父さんも、不思議と立派なお父さんになってしまうのだ。

 昔は台風になるとよく停電した。そして停電こそ、お父さんの出番なのだ。電気が使えなくなるとお父さんはとっても強くなる。ただ真っ暗になっただけなのに「みんな、大丈夫かっ」なんて声を掛けちゃったりする。そして誇らしげにろうそくを取り出して火をつけ、用もないのに家の中を行ったり来たりする。

 そう、電気が使えないとお父さんは途端に元気になるのだ。−−そういわれてみると、お父さんという種族は、なぜか電化製品に弱い。初めてビデオが家に来たとき、最後まで予約の仕方を覚えられなかったのはお父さんだったし、電子レンジの調理カードの使い方がわからなかったのもお父さんだけだったし、FAXで紙がそのまま送られると思い込んで、出てきた紙を何度も繰り返し送り続けたのもお父さんだけだった。

 お父さんは時代と共に弱くなっていく。それは、もしかしたらより多くの難しそうな電化製品がぼくらの生活に入り込んでくるのと無関係ではないのかも知れない。富士通のCMを見てひそかに涙を流すお父さんもきっと多いことだろう。ビデオ、FAX、そしてパソコン。お父さんの敵は日増しにぼくらの回りに増えている。そうしてお父さんは日増しに弱くなっていく。

 全国のお父さんのために、年に一度「台風の日」というのを作れないだろうか。全ての文明の利器が使えなくなる日。外は雨風が吹きすさび、雨戸を締め切った薄暗い部屋の中でじっと過ごす日。お父さんの復権は、きっとそこから始まるのだ。

 そういえば、その昔、台風は外国の女性の名前で呼ばれていた。「キャサリン台風」なんて具合だね。お父さんは、なぜか金髪美人にも強いのだ。



PCFan (96-10A) Essay

「料金未払いの法則」


おかみからの通知というのはどんな場合でも常に「イヤな予感」がつきまとう。その日、NTTから送られてきた通知も、やっぱり一目見て「イヤな予感」がした。NTTはついこの間まで国営企業だったのだから、「準おかみ」みたいなもんである。封を切って中を覗いてみると、案の定、それは料金未払いの通知であった。

 うちはBBSが置いてある関係で、電話線が六本も引いてある。このうち四本が、まだ自動引き落としになってない。だから、たまに一つや二つ料金の支払いを忘れてしまったりするのだ。慌ててここ数ヵ月届いた郵便物をひっくり返し、未払いだった電話料金の振り込み書を発見し、なんとかBBSの停止を免れたのであった。ネットにアクセスしている諸君。かようにネットワーク管理者というのは大変なものなのだよ。

 どうもぼくは、こういう公共料金の支払いというのをよく忘れる。電話やガスなどもそうだが、一番忘れるのが、半年ごとにまとめて振り込む年金というやつである。なんだってこう忘れっぽいのだろう、と考えているうちに、ぼくは未払いのものに共通する法則のようなものに気づいたのである。

 それは「支払い期限に余裕があるものほど忘れやすい」ということ。

 今週中に払わないとダメ、というものは、たいていの場合忘れない。ところが「月末までの間に振り込んでください」というようなものは、二回に一回は忘れる。「三ヵ月以内に…」なんてやつは、これはもう無事に支払うことなど金輪際ありえない。

 いつでもオッケーというのは、相手を安心させてしまう。「ま、余裕があることだし、暇なときにでもやっとくか…」と考え、もうその件はそれで決着したかのように安心してしまうのだね。

 これが「今週中に!」なんて書かれてあると、そうはいかない。ちょっと待て、銀行に行かないと金はないぞ、今日は水曜日だから、明日か明後日のどっちかにお金を降ろしに行って…と頭の中はパニックとなり、とにかく無事支払い終えるまで心休まることがない。このへん、ちょっと大げさな表現だなあと思うがまあいいや。

 そう。人間というのは、ゆとりがあるほど「できない」ヤツになっていくのである。ライターをやっていると、このことがよくわかる。「明日中に締切です!」という原稿はまず落とさない。落とすのはたいてい、来月末の締切というような原稿なのだ。

 毎日毎日、過密なスケジュールに追いまくられている人間を、ぼくらは「できるヤツだなー」と思ってしまったりする。だがしかし、これは実は正反対なのだ。本当にできるヤツというのは、「半年後までにこれをお願いします」とポーンと仕事を渡されて、それを自分一人でこつこつ消化してちゃんと半年後に引き渡せる、そういう人間だ。例えていえば、毎月一○本も連載を抱える売れっ子作家より、年に一冊、原稿用紙五○○○枚の書き下ろし長編を発表する作家のほうが「できるヤツ」なのだ。スケジュールに追いまくられて仕事をするのはバカにだってできる。全く何にも追い立てられていないのに、自分で自分をちゃんと追い立てて仕事のできる人間、それが本当に「できるヤツ」なのだ。

 もし、君の回りに、やたらと忙しがっている人間がいたとしたら、注意して見てみるといい。スケジュールががら空きになると不安そうな顔をする、そういうのは「デキるように見えて実はデキないヤツ」の典型である。彼は常にやる事が決まっていないと不安でしょうがないのだ。

 「いやー、最近忙しくってさー、先月届いた○○ってソフトのバージョンアップ、気がついたら期限が過ぎちゃってたよ、ははは」

 …電子手帳なんぞを振り回しながらこんなことをいう男がいたら、それは「役に立たないヤツ」と思って間違いない。



PCFan (96-11A) Essay

「いいえ私は蠍座のパソコン」


人は「科学的」という言葉に弱い。−−先日、テレビを見ていたところ、不思議な話をしていた。それは「最近になって、星占いの星座の数が十二から十三に増えた」というのだ。ぼくは占いにほとんど興味がないので知らなかったのだけど、もう数年前からあるのだってね。君は、もう知ってた?

 なんで千数百年も前からずっと「十二だ」と決まっていた星座の数が、最近になって増えてしまったのか。その理由を聞いてぶっとんだね。星占いができた頃は黄道(太陽の通り道ね)上には十二の星座しかなかったけれど、千数百年の間に地球の地軸が変化したり星が動いたりして星座の位置がずれてしまった。それで最近になって黄道上の星座をきちんと計測しなおしたところ十三個あることがわかった、というのだね。おかげで、長い間乙女座だったぼくはその日から獅子座になってしまったのであった。

「−−このように科学的に調査しなおして千数百年間のずれを修正したことで、星占いの精度が格段に高くなりました」

 なーんてことを平気で放送しちゃったりしてるのだ、そのアナウンサーは。そしてそいつの表情なんかをよく観察していると、どうやら本当にこれを科学的なんだと信じてるらしいのであった。

 ぼくも「科学的でないものは一切存在を信じない」という朴念仁ではない。占いにしたって、「私には霊感があるのだ、だからインスピレーションであなたの未来がわかるのだ」と断定されてしまうと、なんかよくわからないけどそうかも知れんな、と思っちゃったりする。けれど「科学的に調査して未来がわかるようになりました!」といわれると、「おいおい、ちょっと待った」といいたくなる。それじゃ、星占いで三体問題が解けるのか? 中山の最終レースがわかるってのか?

 科学的というなら、もっと徹底的に科学的に星占いの信憑性を調査すればいいのだ。その結果、正しさが証明されたというならぼくだって信じてやっていい。

「新しく増えた蛇遣い座は、運命を自由にあやつる人なのです」

 なるほどそうか、じゃあそれを科学的にきちんと説明してくれるのかと思って見ていると、「蛇は運命を表わすから、蛇遣いは運命をあやつる人なのだ」という。オレは幼稚園児じゃあねえんだぞ。もうちっとはマシな説明をしてみろってんだよ。−−このあたり、だんだん言葉遣いが乱暴になってきたがまあいいや。

 科学と無縁の人間ほど、「科学」というものに弱い。こういう人間がコンピュータなんぞを使うようになったりすると、これはもう目も当てられないようになる。

 君らの回りにもいないだろうか。コンピュータを使っているときに、妙に非科学的なことを言い出す人間が。

「あのね、うちのパソコン、七の付く日に動かすと普段より速く動いてくれるの」

「たまにうちのマシンはね、機嫌が悪くなって暴走したりするのよ。そういうときはね、お気に入りのクマさんのぬいぐるみをモニタの上に置いてあげると機嫌をなおすの」

「モニタの裏側にビニールテープを貼ってあげると、画像がシャープになるんだってよ」

 これは冗談ではない。実際にぼくの回りにこういうことをいうヤツがいるのだ。君の回りにも、探せばきっといるはずだ。パソコンの機嫌を気にするヤツ。パソコンに話しかけるヤツ。うまくできるとモニタの頭をなでてあげるヤツ。彼らは本気でそれが正しいと信じているのだ。

 ある友人の許には、先日、インターネットで不幸のメールが届いたという。「このメールを○○日以内に××名の人にメールしないと…」あなたは不幸になる、というのだ。デジタル情報で不幸が届けられる時代がやってくるとは、全く便利になったもんだ。



PCFan (96-11B) Essay

「知られざるハイテク職人」


このエッセーを書き始める直前に、大ニュースが飛び込んできた。あのステップが倒産した!というのだ。まあ、正確にはまだ倒産というわけじゃないようだけど、これは衝撃的なニュースだった。ステップといえば、パソコンの安売りで有名な店。お世話になった人も結構多いんじゃない?

 最近はスーパーなんかでもパソコンを売ってるから、わざわざバッタ屋までいくこともなくなってしまった、ということもある。ともかくパソコンは今、家電の超人気商品だそうで、あっちでもこっちでも安売り合戦の状態だ。いっぱい売れれば過当競争になり、利益率が下がり、倒産する−−という、典型的な「好景気倒産」になっちゃったのだね。

 しかし、この「安売り店」というのを考えるとき、以前から不思議でたまらないことが一つあった。それは「なんで安売りのチェーン店はカメラ屋が多いのか?」ということ。サクラや、ヨドバシ、ドイ、みんなカメラ屋から成り上がったところばかりだ。他の安売りショップがけっこうあちこちでバタバタ倒れているのに、なんだってカメラ屋出身の店は強いんだろうか?

 これはずいぶん長い間の疑問だったのだけど、最近、サクラやに買い物に行った折に、ふと発見したことがあった。カメラというのは、いつの時代も常に高額商品があるのだ。過当競争で倒産するというのは、「商品が大量生産される→値段が下がる→利益が減る」という図式になるんだけど、カメラの場合は、常に高価な新製品が出続ける。周辺機器である交換レンズなども結構な値段のものが多い。これが、カメラ屋が利益を維持している秘密ではないか、と思ったのだね。

 考えてみると、「常に高い新製品がある」というのは不思議なことだ。−−例えば、電卓というのがある。今から20年ぐらい昔、わが家で初めて電卓を購入したときは大騒ぎになっりしたものだ。それが今じゃ、一枚数百円でヨドバシの店頭に束になって吊されている。「これは電卓の最高機種です」というのが10万円で売ってたりは絶対にしない。電話もそうだ。30万円の電話器というのは絶対に新製品として登場しない。

 ところがカメラは、50万円の交換レンズなんてのが新製品で出てきて、しかも売れちゃったりするのである。安っぽいポケットカメラ全盛の時代に、京セラがカールツァイスレンズを搭載した10万を越えるカメラを出してバカ売れしてしまったのはつい最近のことだ。

 なんでカメラはそんな高級品がとぎれることなく登場し、電卓や電話は出てこないのか。その理由は単純だ。「カメラはアナログだから」だろう。今のカメラはほとんどが電子化されているけれど、レンズだけは別だ。大量生産されたレンズはあんまりきれいには写らない。「これは!」といった良いレンズは、みんな飛騨の職人さんが一本一本手作りしているのである。

 アナログレコードのアンプやスピーカーなんかもそうだ。百万以上もするスピーカーというのは、みんな飛騨の職人さんが半年かけてコイルを巻いているのである。だからあんなに高いのだ。

 アナログというのは、どうしても最後の最後に「職人的な技術」という壁にぶち当たる。どうやってもオートメーション化できない世界。そういう世界が残っているものは、決してつぶれない。そして、全てデジタルの世界というのは、それが普及し量産されるに従い、次第に衰退していくのである。デジタルというのはそういうものなのだ。

 そういえば、デジタルとアナログの両方が混在しているものに腕時計というのがある。デジタルの腕時計はサクラやの店先に山積みされているけれど、アナログの高級腕時計はとんでもない値段で売られている。−−もちろん、ローレックスもカルティエも、飛騨の職人さんが一本一本組み立ててるのは間違いない。



PCFan (96-12A) Essay

「夢は夜ひらく?」


国際電話の料金請求書が送られてきた。先月はあんまり海外へは電話しなかったのでたいした金額ではなかったけれど、それでもやっぱり万単位である。で、明細を眺めているうちに、それまでよりも妙に金額が割高なのに気がついた。先々月は30分で四千円代だったはずのものが、なぜか先月は五千円以上になっている。

 おかしい、どうも変だ、とひっくり返して調べている内に、ようやくその理由がわかった。それまでは、夜の11時以降に電話するようにしていたのだが、先月は昼間にかけることが何度かあったのだ。そのため、深夜割引がされず、普段より料金が高くなっていた、というわけだった。

 …なんとなく、納得したようなしないような感じである。そもそも、なんだって夜は料金が安くて昼間は高いのだろうか? そういや、電気料金も深夜は割引である。どうして昼間より夜間のほうが安いのか?

 まあ、電気についてはなんとなく想像がつく。電気は昼間は電力需要が猛烈に高くなる。だから少しでも電力需要を分散するために夜間は値段を下げ、なるべく需要の少ない時間帯に振り分けるようにしているのだろう。

 しかし、電話はどうなんだろう? 電気と違って、電話は通話数が増えようが減ろうが、回線がパンクしない限りは何も違いはないような気がする。夜間に分散させるったって、会社なんぞの電話は料金がどう違っていようが夜中にかけるわけにはいかないのだ。電気なら「夜間にお湯を沸かします!」なんてこともできるけど、「夜間にまとめて電話します!」なんて電話器があったって役にはたたない。「今連絡したい!」と思ったときにすぐさまかけられるから電話なのだから。

 そう考えているうちに、ぼくは更に重大な抜け穴を発見してしまった。国際電話は、こっちが夜間にかけても、向こうが夜であるとは限らないのだ! 例えばアメリカ東海岸にかけたとすると、こちらが夜中でも向こうは午前中である。「日本さえ混雑緩和できれば向こうがどれだけ混雑しようがどーでもいーんだもんね」というのか?

 深夜割引に限らず、最近の電話料金は不思議なサービスが多い。テレジョーズ、テレホーダイ。国際電話のファミリーサービス。いや、電話に限らず、最近はこうした細々したサービスがやたらと増えた。航空会社の早割料金。金融機関の自由金利タイプの預貯金。あまりに複雑で、なにがどーなってんだかわかりゃしないものばかりだ。そして不思議なことに、これらは全て、複雑な割にはたいして安くならないのだ。

 テレホーダイよりテレジョーズより、基本料金が安いのが一番いいに決まっている。「うちはNTTの半額です!」というところがあれば、他のサービスなんざ一切なくったってみんなそこへ鞍替えするだろう。「うちの定期は利息が他の倍です!」といえば、みんなその銀行へどっと移るだろう。だけど、それはできない。できないから、小手先のサービスを考えるのだ。

 そう。細かなサービスが増えるのは、基本性能が上がっていない証拠なのだ。一番大切な基本部分がずばぬけてすぐれていれば、人は余計なサービスなんぞ求めないのだ。

 最近パソコンを買って、バンドルされているソフトの多さに仰天した人も多いことだろう。ワープロ、表計算、インターネットに教育関係。どのパソコンも基本性能は似たりよったりだ。だからこそ、自信のなさを覆い隠すに十分なおまけが必要なのだ。

 かくてパソコンにバンドルされるソフトは増加の一途を辿り、ぼくらは「買ってすぐに使えるパソコン」が使えるようになるまでに四十八冊のマニュアルを読破する羽目になるのである。


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