どうも僕は頭の回転が通常より遅いのか、物事を理解するのにえらく時間がかかってしまう。一応、僕はHyperCardのスペシャリストみたいに思われてるけど、HyperCardでさえ、いまだによくわからないのだ。
やはり、歳をとるとノーミソが硬くなってしまうのだろうか。そういえば、小学校などで教室を開いたりすると、子供たちの理解の早さには舌を捲いてしまう。
「みんな、わかった?」
「はーい!」
僕の拙い説明だけで、みんなちゃんと理解してしまうのだ。信じられずに、本当かどうか後でいろいろ質問してしまったりする。
「ね、ね。この『保存』ってメニューは、何をするためのなんだっけ?」
「これはね、絵をちっちゃくするの」
「ちっちゃく???」
「そう。ほらね、今はね、テレビ(モニタのこと?)いっぱいに絵があるでしょ。これをやると、こーんなちっちゃくなっちゃうの」
そういって彼女は誇らしげにキッドピクスのファイルのアイコンを指差す。なるほど、確かにアイコンはちっちゃい。
「わかる」ということはどういうことなのだろう。それは決して「全てを知っている」ことではないように思う。「Macがわかる」といっても、その人がMacの全てを知っているわけではないはずだ。ひょっとすると、開発者も知らないような、90億年に1回発生するバグがあるかもしれない。「絶対にない」とは誰にも断言できない。
では、「わかる」とは何だろう。−−それは、あえていえば「自分自身の中で全てが矛盾なく完結しており、何の疑問も生じない状態」をいうのだろうと思う。
僕がいまだにHyperCardが「わからない」のは、3部作が原因だ。あれを執筆したために、次から次へと疑問や新しい考えなどが浮かんできてしまい、どうしても自分の内部で「完結」させることができなかった。AppleScriptだってそうだ。単行本を書き、MacPowerで連載が始まったせいか、ともかく様々な疑問が湧いてくる。とても「わかった」なんて断言できる状態ではないのだ。
もし、3部作なんて書かなければ、僕はもっと早くHyperCardを「わかった」だろう。更に、自分でスタックを作らず、ざっと機能を眺め回しただけで「はい、終わり!」と放り出していたなら、HyperCardなんて即座に「わかった」に違いない。要素が少ないほど、安定した状態には到達しやすいのだ。
あなたの回りには、ひょっとして1人ぐらい「何でもわかってしまう人」がいないだろうか。
「−−ね、PhotoShop、わかる?」
「ああ、わかるよ」
「じゃ、Excelは?」
「もちろん、わかるよ」
「MS-Windowsとかもわかるの?」
「ああ、わかるけど」
なんてすごい人だろうと僕なんざ驚嘆してしまう。きっと彼は、僕の数億倍の演繹能力をもった脳か、さもなくばシワ一つないツルッツルのノーミソの持ち主に違いない。
「わかる」「納得する」「満足する」「安心する」−−世の中には「全てが完結する」状態を意味する言葉は多い。こうした状態の多くは、心を安らかにしてくれる。だからこそみんなそうなりたいし、だからこそ、その危うさに気づかない。
パソコン界に限定してみても、とかく最近はややこしい話題が多い。AppleとIBMがどうたらこうたらとか、インターネットがなんだかんだとか。こうした知らない情報の波に翻弄されると、僕らはつい安易に納得したくなる。「ええい、ややこしい。とりあえず、これで『わかった』ことにしてしまえ!」と。そうして一刻も早く安らかになりたいのだ。
わかってしまうのはしょうがない。けれど、せめて「安易にわかってしまったことへの不安」くらいはもち続けていたいと僕は思う。そのほうが、本当にわかることより何倍マシかしれないのだから。
本誌の2月号より、AppleScriptの連載が始まった。期待して読まれた方も何人かいるだろう。それらの方々に対し、まずおことわりをしておきたいと思う。
私は、あんな文章を書いた覚えは全くない。全体を通して読めばすぐにわかるが、あの記事の文章はまともな日本語ではない。MacPowerの記事ではかなり頻繁に見られることだが、主語が抜け落ちていたり、形容表現のかかる言葉が見当たらない、など初歩的な文法ミスがいくつもある。また文法的に間違っていない部分でも、文章表現の稚拙さは相当なもので、3文も連続して「〜だ」で終っていたり、順説の接続で逆説の接続詞を使っていたり、「さっそくウィンドウを作成してみよう」と書いておきながらウィンドウの作成法は全く書かれていなかったりする。どれもこれも普段私が絶対に書かない文章だ。
ところが、記事には私の名前が書いてある。読者は当然、これは掌田というやつが書いたものだと思って読むわけである。そうなると、全ての責任は私にかかってくる。これは困る。単に内容が正確かどうかという問題ではない。「掌田という男はこの程度の文章しか書けないのか」と思われてしまうと、これは商売に差しさわる。
パソコン雑誌の編集部というのは内容の正確さにばかり目がいって、「文章表現」というものをあまり考えない傾向にある。今回のようなことは、実は結構頻繁にあることなのだ。まあ私個人は多少の書き換えに目くじらをたてるほうではないからあんまり問題にしたことはないけど、時にはさすがに腹がたつこともある。
パソコン雑誌の記事の大半は、「情報を伝えるためのもの」である。だから、そこに含まれている情報をよりわかりやすく且つ正確に伝えるために、ある程度文章の手直しをするのは止むを得ないと思う。また雑誌というのは限られた中に記事を押し込めなければいけないから、文章量を調整するために手を加えるくらいは我慢せねばなるまい。
しかし、単に正しい情報を文章にするだけが全てなら、ライターの存在意義はどこにあるのだろう。「より正しく幅広い知識をもっていることだけがライターの唯一無二の条件だ」というなら、私なんぞ廃業せねばなるまい。しかし、どこの馬の骨でも豚の骨でも日本語さえ書ければそれでいいのか。「この人に書いて欲しい」というのは、その人でなければ書けない文章があるからではないのか。
編集者は、そうした想いをこめて書いた文章の中から、「私でなければならない部分」を実に巧妙に削ぎ落とす。そして血も肉も取り除かれたミイラのような文章を雑誌に掲載する。それは売文業者のために誂えたシーシュポスの拷問である。
多くの編集者は、「ライター風情よりこっちのほうが文章がわかってる」と思っている。そして多くの場合、それは事実だったりする。ライターの大半は、inside Macは読んだことあるがドストエフスキーは読んだことがないという連中だ。一方、編集者は「本の虫」というような人間が多い。しかし、だからといってライターはみんな文章がわからないとナメてはいけない。
以前、書き下ろした単行本の初稿があがってきたときのことだ。あまりに書き換えが多かったので、ちょっと文句いってやろうかと思い、「ここは、最初、こうだったでしょ。それからこの部分はこういう言い回しだったはず…」と編集者に1つ1つ説明をし始めたところ、彼女は目を丸くしてこういった。「−−掌田さん、書いた文章、全部覚えてるんですか?」
冗談じゃない、そんなことできるわけがないだろう。しかし、私は自分がどういう場合にどんな文章を書き、どんな文章は書かないか、よくわかっている。だからざっと眺めれば、私が書いた部分と書き直された部分はほぼ区別できる。世の中、その程度の文章力を持ったライターだって多少はいるのだ。
(MacPower 95-04 「MacPower's Colums」より引用)
[問題]
さて、上記の問題文を読んたところで、問題です。
(1)上の文章は、誰が書いたのでしょうか?
1.ライター 2.編集者
3.編集デスク 4.編集長
(制限時間:10分)
(2)上の文章のうち、筆者自身が書いた原文の部分を全て赤線で示しなさい。
(制限時間:25分)
最近は、こういうパーソナルな情報処理をパソコンでやってしまおうと考える人が増えてきたようだ。Macでも家計簿だの名刺管理だのといったソフトが結構増えているし、ザウルスを始めとする電子手帳の世界は不況知らずのようだ。なにしろ、今や小学生までが電子手帳をもっている時代なのだから。
しかし、彼等は本当に電子手帳で自分を管理できているのだろうか。家計簿をMacでつけている人など、本当にいるのだろうか。
エキスポでは、Newtonをもって名刺交換をしている人間を結構見かけた。彼等が集まってしきりにペンを動かしている姿を見ると、なんとも奇妙な感じになる。
「…うっ、しまった、変換ミスだ」
「ええと、ちょっと待って。昨日までのデータはRAMディスクに移さないと新しいデータが入らないんだ」
「あ、○○さん? うん、昨日あったけど、その時はバッテリが残り少なかったから名刺交換はしなかった」
紙の名刺ならば30秒ですむ名刺交換のために、彼等は10分もの間、悪戦苦闘する。彼等は、本当に「便利だ」と思ってあんなことをしているのだろうか。紙の名刺を交換するより、電子ビームのほうが便利だと信じているのだろうか。
メモ帳、システム手帳、電子手帳、ノートブックパソコン。もち歩いて個人情報を管理できるものはいろいろとある。だけど、高機能なものを使っている人が一番管理が行き届いているわけではない。昔ながらのメモ帳で、いついつのスケジュールでもぴしっと整理している人もいれば、電子手帳とノートブックパソコンをもち歩き、会社と自宅に複数のパソコンをもっているのに、取引先の相手の電話番号を調べるのさえままならないという人間もいる。
はっきりいってしまおう。パソコンで個人情報を管理できる人間は、パソコンがなくてもきちんと自分を管理できる人間だけだ。「○○がないとうまくできない」と絶えず思っている人間は、○○があってもうまくなんかできやしないのである。本当にうまくやる奴は、必要なものがなくったって何とかやりくりしてしまうものなのだ。
この本を読んでいる「パソコンがあれば自分にも何かができる」と思っているあなた。君を「できるヤツ」にするコンピュータなどこの世に存在しない。君をできるヤツにするのは、君の回りにある何かではなくて、君自身なのだ。そのことに早く気がつかなければいけない。
−−だけど、おそらく君は「そんなやつ、いるのかね、へっ」とか思いながら、この文章を読み飛ばしてしまうだろう。そして、物事がうまくいかないのはマシンのせいだと思い、新機種をひたすら買い続けるのだろう。
君の回りは、「はかない夢」の代用品で埋まっている。女がいないときの代用品のヘアヌード写真集。運がないための代用品の開運印鑑セット。センスがない人の代用品の丸井ファッション館。そして、能力がない場合の代用品であるパソコン。それらによって自分が必要としているものが手に入るかのように錯覚し、君は永遠に代用品を買い続けるのだろう。いつの日にか、自分がばりばりのスーパーマンとなる日を夢見ながら。
…などということを考えつつ、本日も電卓片手に領収書の計算をしているのであった。ああそうだよ、今の話は俺のことだ。文句あっか。
もちろん、彼等の多くは、PHSがいかに便利かを力説する。とりあえず都内にいるならいつでも連絡がとれるし、携帯電話ほど金もかからない。これは便利じゃないか、と。
本当にそうなんだろうか。−−ぼくは、「いつでも連絡がとれる」というのが便利だとは全然思わないのだ。むしろ、不便なことだと思っている。こんな不自由なことはないと思っている。
ポケベル、携帯電話、PHS…。これらは、持つことによって「持っている側」の主導権が失われてしまうという不思議な性質を持つ。これらは、どんな場合でも一方的にかかってくるのだ。こういうと、彼等はすぐにこう切り返してくる。「使わないときはスイッチを切っておけばいい」「最近は留守電機能付の携帯もある」と。なんとも不思議な答えだ。それなら、持ってなくても同じじゃないか。だいたい、「いつでも連絡がとれる」のが便利で購入したんじゃなかったのかい?
連絡がとれない不自由さを、ぼくは大切にしたい。ぼくは、普段から電話は留守電にしっぱなしにしてある。家にいるときは、かかってくれば、だいたいはとる。ただし、あくまで「だいたいは」だ。気分がのらなければとらない。「それじゃ、緊急の用事がある場合はどうするんだ」と思うかも知れない。けれど、「あと数十分以内に連絡がとれないと全てが御破算になってしまう」なんて重要な電話など、実はほとんどないのが現状なのだ。
きっと、多くの人はこう思うだろう。「それはあんたが大事な仕事をしてないからだ。オレは会社で、学校で、社会の中で、とても重要な働きをしているのだ」と。だから携帯電話やPHSで24時間いつでも連絡がとれるようにしておかなければいけない、と。
君は常に忙しい。24時間、仕事にプライベートに駆けずり回ってる。そして君は誇らしげにこういう、「いやあ、最近、忙しくってね」と。自分がいかに忙しい存在なのかをより多くの人間に認識させるために、君はポケベル、デジタル携帯電話、PIMツール、サブノートパソコンを体中に貼りつけ、そこかしこを走り回る。
君は、自分が実は社会の中でたいして重要な存在ではないことに気付くのを怖がっている。そうじゃないか? 例えば、今、君が急病で倒れたとしよう。そしたら、会社は倒産するだろうか。今やっているプロジェクトは御破算になるだろうか。断言してもいい、そんなことは金輪際ありえない。君の代りはいつだってどこにだっている。それを認めていないのは君だけだ。
ぼくはいつでも連絡不能だ。たいして重要でもない電話なら別にとる必要もない。本当にぼくを必要としている電話なら、折り返し電話すればいいだけのことだ。いずれにせよ、今すぐただちに電話をとる必要はない。連絡をとる主導権は常にぼくにある。そうすることで、ぼくは自分のちっぽけな存在理由を確認する。ぼくは社会の中でたいした存在じゃないが、それでもぼくを必要とすることはある。連絡不能となったとき、ぼくの存在理由を相手にもぼく自身にも想起させることができるのだ。
右手の重要さを最も強く認識する時はいつか。それは、右手を失った時だ。ぼくは、いつも「存在している」と「存在していない」の間をぶらぶらしていたい。迷惑この上ない話だ。「いい加減にしろよ」という回りの声が聞こえてくるようだ。けれど、今の世の中、安全確実な奴に存在価値なんてないのだよ、君。
いつから油絵をやめてしまったのかと考えてみたのだけれど、どうやらやめたのはMacのタブレットを買った時期と前後しているらしい。タブレットと一緒に「ダブラー」という手描き風のグラフィックソフトも買ってしまったので、それ以後は絵というとほとんどMacで描くようになってしまったのだろう。
これで「やっぱりMacって便利ですね、これからはお絵描きもパソコンの時代ですね」となればそれで話は終わりなんだけど、実はそういう方向へ話は進まない。なんとなれば、どうやら「ダブラー+タブレット」というのは油絵の代りにはならないらしいことがわかってきたからだ。
もともとコンピュータを使って絵を描くことにはかなり懐疑的だった。といっても、その理由は主に技術的なものだ。以前はパソコンのグラフィックソフトといえば機械的な図しか描けないものばかりで、とても手描きタッチを再現することはできなかったのだ。しかし今では、ペインターやダブラーなどをタブレットと組み合わせて使えば、ほとんど絵筆の感覚が再現できるようになった。
ではなぜMacは油絵の代りにならないのか。それはMacで絵を描くと手を抜くからである。
油絵は、大体1枚描くのに2週間から1ヵ月かかる。私はかなり厚めに絵の具を塗り重ねるのが好きなので、ある程度描くと、それを何日か放置して乾かし、それから更に上塗りする、といった描き方をする。だからとにかく時間がかかる。それに油絵は失敗ができない。「あっ、しまった!」と思っても、取り返しはつかないのだ。だからとにかく描くのは大変だし神経がいる。
これに比べると、ダブラーは想像以上に便利だ。便利だから手軽に絵が描ける。油絵は「よし、やるぞ!」と決心をしないとなかなか描き始められないが、Macなら仕事の合間にサラサラと筆を動かす気分になれる。修正はいくらでもできるし、失敗してもやり直しがきく。
便利だ、実に便利だ。だからこそ、ろくな絵が描けないのである。
何のために絵を描くのか。暇つぶしのためなら、Macでよい。あるいは描いた絵を元にソフトやスタックなどを作るのなら、やはりMacでないとダメだ。また、そこいらに転がっているような、いかにもコンピュータ然とした適当にきれいで適当にカッコイイ絵を描くのにもMacは最適だ。がしかし、一つの作品として一枚の絵を描き上げたいのなら、Macではダメだ。
デジタルデータには根性がない。それは「この世にかけがえのないただ一つのもの」という感覚が欠落しているからだと思う。いくらでも予備はある。だからいくらでも修正できるし、いくらでもやりなおせる。できたものは、いくらでもばらまける。もちろん、そういう特徴がメリットとなる世界もある。けれど、それでは油絵の代りにはならないのだ。
便利になることで失われる世界というのが、この世には確かに存在する。ほぼ完成したキャンバスに筆を入れるには勇気がいる。「もう、これで十分じゃないか」「もし失敗したら今までの苦労が水の泡だぞ」−−さまざまな思いが頭をよぎり、僕に「やめろ」という。だがそれを振り切って、キャンバスのど真ん中に鮮やかな紫の一条を描き込む−−。
大抵の場合、その後にあるのは「あちゃー、しくじったあ!」という後悔だったりする。だが、後悔できないデジタルデータより、世界にただ一枚の失敗作のほうが僕にとってははるかに大切なのだ。
実家の両親は、もちろん全くのパソコン音痴である。私が電話線にパソコンをつないでいるのを、不思議そうな顔で見ている。
「あんた、何してんの?」
「え? ああ、電子メールで年賀状が届いてるから、返事を書いてるとこ」
そう答えると、母親は突然怒り出した。パソコンで年賀状の返事を書くのが失礼だというのだ。
「でも、このほうが便利だし早いんだよ」
「あんたは便利だろうけど、それじゃ心が伝わらんでしょうが」
「電子メールだって心は伝わるよ」
「いいや、伝わらん。そんな便利なもんで伝わるわけない」
…母親によれば、年賀状は一枚一枚ゆっくりと心を込めて書くもので、キーボードでカチャカチャ書いて送ってはいけないものらしいのだ。
これだから年寄りは困る…と思いながら、しかし私は、母親のこの言葉にしばらく考えこんでしまった。母親の言葉は、ある意味で、日本人の一番基本的な考え方を含んでいるように感じたのだ。
母親にとって、パソコンは失礼なものである。なぜなら、「便利である」からだ。便利とはつまり、それまで時間と労力のかかった作業を短時間で簡単にすませることができるということだ。そしてそれは、純然たる日本人である母親にとって、大変失礼なことらしいのだ。
いにしえより、日本人は「心」をはかる単位として「時間」を利用してきたような気がする。相手のためにどれだけの時間を費やすことができるか−−それによって、我々は相手の心をはかってきた。
たとえば、ある家庭のホームパーティに招待されたとしよう。そのとき、席上に大変手間のかかった料理が出てきたりすると、我々は相手が自分を心からもてなしてくれていることを実感する。味なんて問題ではないのだ。どんなにおいしい料理でも、どこかからデリバリーしてきた料理であることがわかると興ざめしてしまう。
あるいは、彼女とのデートの日、相手が時間になっても来なかったとする。そういうとき、自分は、あるいは待たせている彼女は、男性がどれだけの時間女性を待つことができるかでお互いの愛情を確認してはいないか。「前の彼女とデートのとき、2時間も待ったことあるっていってたじゃない。なんであたしだと30分も待てないの?!」などと責められた経験のある方、多いんじゃない?
心をはかることは難しい。金でも宝石でも、正確にはかることはできない。心をはかるには、他に変えることのできない、かけがえのないものを使わなければならない。「時間」という単位は、今まで非常によく機能してきたような気がする。
コンピュータの普及によるわけでもないだろうが、今は「能率」が全てに優先されるような世の中になりつつある。今年は「インターネット元年」であるなどともいわれる。とにかく速く、とにかく手間をかけずに全てをすませること、それが正しいのだという風潮があるように思う。
それが悪いとはいわない。私だってインターネットのお世話になっているし、昔の不便な時代に戻れといわれれば「ご免こうむる」と答えるだろう。
だが…。「能率最優先」の時代になったとき、我々は「心」を何によってはかればいいのだろう。「時間」という単位に変わる、心をはかることのできる新しい単位を我々は見つけることができるだろうか。
あるいは、能率最優先の時代になっても、いや、そういう時代であるからこそ、「心」をはかる単位として「時間」は今まで以上に重視されるかもしれない。個人的には、こちらのほうがありそうな気がする。
その昔、巷に「心」がみちみちていたころは、人を待つのに半日ぐらい我慢するのは当り前だった。ところが最近は、「彼女が来るのを6時間待った」なんていうと、「すげえ奴」と半ばあきれるくらいに感心される。人々がそれだけ心を惜しむようになったから、時間という単位の価値が上がったのだ、というのは穿ちすぎた見方だろうか。
今年の正月、私は例年より1日早く東京へ戻ってきた。母親はそれを「親への愛情が薄れた証拠」とみていることだろう。そしてそれは、間違いではないのかも知れない。
今年の私の目標は「愛する人のために、より多くの時間を浪費できるように生きること」とした。去年は1度しか帰省しなかったが、今年は罪滅ぼしのために2〜3度は帰省しようと思っている。