死んで責任をとる無責任さ


どうも不快だ。浅田農産の会長夫妻が自殺したという事件。こういうのを容認する風潮がある事自体、不愉快だ。

鶏インフルエンザの大量感染が発覚した浅田農産の会長夫妻が自殺したのはもう2日ほど前になる。書こうかどうしようかちょっと迷っていた。意外に、これ、読んでる人いるし(笑)。それに、日本では「死者に鞭打つべからず」という不問律があって、亡くなった人のことを悪く言うと袋だたきにしていいことになってる。でも、やっぱり書いておこう。

亡くなった浅田農産の会長。あなたは、無責任だ。経営者、代表というのは、責任を取るために存在しているのだ。そういう人間が、いざ責任を取らねばならないときに「死」という逃げ道を選ぶのは、責任者として最低だ。卑怯者だ。死者に鞭打つのは好きじゃないが、この件だけはいわせてもらうぞ。

「死んで責任を取る」というのが、大嫌いである。こういう考えをしたり、そういうのを「男らしい」だのととらえたりする人間自体、大嫌いだ。僕個人にとって、「死ぬ=逃げる」ことでしかない。自殺した会長はだいぶ悩んでいたのだろう。だから、これはやっぱり「責任を取った」のではなく「責任から逃げた」のだと思う。生きて責任を取るのに耐えられなかったのだろう。そういうのはわかる。「すいません、私はもうこれ以上、耐えられません。だから死にます。見逃して下さい」というのはとてもよくわかる。人間、弱いものだから、そういうことだってある。だけど、「死んで責任を取ります」という、なんというか死ぬことを美化するかのような感覚だけはどうしても受け入れられない。

日本では、どういうわけかこういう「死を美化する」ような考え方が昔からある。未だに「切腹」なんて言葉を振りかざすぼけ老人政治家もいるし、単なる「身内の殺人と自殺」を「無理心中」などと言い換えたりする。まだ「心中」まではわかる(といっても、現代において真の心中が成立するとは思えないけど)。が、あまりに「単なる無駄死にや犬死に」を「名誉の戦死」的に美しげにとらえることが多すぎる。「ラストサムライ」なんぞが話題になったり、大河ドラマで新撰組をやったりして、またぞろそういう風潮が強くなりそうな気配を僕は感じてしまうのだ。

単にこれが「死んだ人を美化する」だけで終わっていれば、まぁ、害はない。けれど、こういう感覚が、無駄死にを追認したり、場合によっては強要したりすることにつながってはいないか。例えば、浅田農産の会長にしても、あらゆるところから「死んで責任をとれ」的な圧力がかかっていなかったか。(こういう言い方はでっかい語弊があるが)特に田舎の方では、そういう無言の圧力というのは強いように思う。この事件ばかりではない。例えば政治家の汚職疑惑などがあると秘書が自殺したり、大企業の不祥事が噂されると会計係が自殺したりするけど、これだって「お前が全部ひっかぶって死んでくれ」的な圧力の結果だろう。「誰かが死んで責任を取れば万事解決」というバカげた感覚が、どっかでそれを後押ししていないか?

いい加減、「死んで責任を取る」などというバカげた感覚をこの国から追放しよう。「死ぬこと」を美化するような感覚をこの国からなくそう。——「昔は、武士は切腹して責任を取ったんだ」などと寝ぼけたことをいってるやつ。いいか、日本って国はな、武士が作ったんじゃないぞ。日本って国を支えてきたのは、昔も今も、農民だの商人だと職人だのといった当たり前の平民だったのだ。そういう人間が、切腹するか? 昔の武士が切腹したのはな、武士ってのが「腹を切るぐらいしか能がない、ごくつぶし」だったからだ。平民から米や金を巻き上げ、自分では何一つ生産的なこともしないような人間なんだから、何かあったとき、腹でも切って死んでもらうぐらいしか世の中の役にはたたなかったのだ。

ま、今の日本にも確かに似たような連中はいる。政治家とか、官僚とかいう連中だ。だから、何かあったとき、彼らが死ぬのは認めてやろう。だが、額に汗して働いている平民が、武士でもないのに「死んで責任を取る」なんてことは、例え江戸時代だってなかったのだ。だからみんな、安心して生きよう。この世には、死ぬほど重大な責任なんてない。「私は、責任を取らないといけないので、生きます」といおう。「責任を取って死んだ」なんてやつには、「逃げた卑怯者」の烙印を押してやろう。そうして、早くこのくだらない風潮をこの国から消し去ろう。この国は武士の国ではない。平民の国なんだから。

公開日: 火 - 3月 9, 2004 at 06:20 午後        


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