わかりやすい字幕
映画の字幕は、台詞をわかりやすく端的な言葉にして訳す。でも時々思う。「わかりやすくする」ことって、そんなに重要なのか、って。
いや、とある掲示板で「指輪物語」の字幕について話をしていたんだよね。僕はあれ、見てないんだけど、ただ「字幕がひどい!」って話は聞いていた。指輪物語ってのはいろいろと特別な部分があって、どこまで原作を理解して字幕をつけたのか疑問だなあとは思ってたんだ。だけど、そこで「原作と映画は違うんだから別にいいじゃん」という人がけっこういることを知って、うーんと思ってしまったのでした。
とりあえず指輪物語の特別な事情については脇に置こう。そもそも映画の字幕ってのは、しゃべっている台詞すべてを訳しているわけじゃないってのはみんな知ってる。表示にかなりの制限があるから、どうしても抄訳になる。長い台詞を「つまりこういうこといってる」てな感じでわかりやすくまとめた感じのものにどうしてもなってしまいがちだ。
殊に、指輪の字幕をやった戸田奈津子さんはそういう翻訳が得意な人だ。字幕を作る人の中では、かなり優秀な人だ——と、いわれてる。でもね、実はあんまり僕はそういう感じがしなかったりする。なぜかというと、この人、なんでも台詞を「わかりやすく」してしまうからだ。
わかりやすくするというのはとても大切だ。僕も仕事柄、専門用語だらけの本をどうやればわかりやすくできるか、いつも頭を悩ませてばかりいる。——ただ、そういうこととは別に、世の中には「わかりやすくしてはならない領域」というのもあると思うのだ。
字幕は、それを作った人の作品である。だけど、映画は、映画を作った人の作品であって、字幕を付けた人の作品ではない。「ものを作る」っていうのは、「自分のアイデアをわかりやすく伝える」こととイコールではない。時には、わかりにくい表現だけどどうしてもこれを使いたい!ということもあるだろう。あるいは、もっと短く端的な表現が可能だけど、どうしても回りくどく長ったらしいけどこの表現を使わないとダメだ、と思うことだってあるはずだ。——それを、字幕を作る人間が勝手に「わかりやすく」してしまっていいのだろうか。そうなったら、映画を作った人の伝えたかった思いというのはどこへいってしまうのだろう。
別に、映画に限った話じゃない。例えば、よく世界の名作を子供向けにアレンジした名作集みたいなのがあるよね。「戦争と平和」も「ああ無情」も「魅せられたる魂」も「モンテクリスト伯」も全部同じ厚さの1冊にまとめちゃった、神をも恐れぬ本だ。——確かに、戦争と平和を読みこなすのは子供には至難の業だよ。でも、それを短くアレンジしてわかりやすくして「ほら、これがトルストイの『戦争と平和』だよ」と見せてしまうのはどうなんだろう。作者が苦心した表現は注意深く削り取られ、わかりやすく簡略化された平凡な文章であらすじだけが追ってある。そんなもの読ませるぐらいなら、本なんざ読まなくていい。そう思ってしまうのは間違いなんだろうか。
勘違いしないで欲しい。「わかりにくいほうがいい」とかいってるわけじゃない。ただね、世の中には無数の作品があって、そしてそれらすべてが「わかりやすさ」を第一に作られているわけじゃないんだ。「わかりやすさ」なんかより、もっと大切なもののために作られている作品だってごまんとある。「わからなくてもいい。これを見たほんの一握りの人間だけでも、オレの意図に気づいてくれればそれで満足だ」——そう思って作られた作品を、わかりやすく万人が理解できるようにしてしまうことは、はたして正しいんだろうか。「わかりやすさ」ってのは、そんなふうに全てに(作者の意思よりも)優先されるほど偉いものなんだろうか。そもそも、なぜ「みんながわからないといけない」のだろう。
「2001年宇宙の旅」が公開されたとき、大半の人間は「理解不能」だったという。ストラビンスキーの「春の祭典」が初めて演奏されたとき、開始して10分も経たないうちに会場内はブーイングの嵐となったそうだ。——それらが「わかりやすくアレンジ」されることなく世に出されたことを、僕は心から喜びたい。「わかりにくい」「難しい」なんてのは、たかだか10年か20年で変わってしまう程度のものじゃないか。そんなもののために100年経っても変わらない部分を失くしてしまうなんて正気の沙汰じゃないよ、ったく。
公開日: 金 - 2月 13, 2004 at 03:45 午後