根性ある?


こんな言葉を未だに若者が使っていること自体に驚いてしまった。

金曜の夜といえば「しゃべり場」でありますね(笑)。最近、うちの娘が割と決まった時間で寝るようになってきたので、ほんの少しだけど夜は自由な時間がとれるようになってきた。で、しょうこりもなくまた見ているんだけど(笑)。

今回は「省エネ人生はダメなんかい?」といったことで、最低限の努力で最低限の結果が得られればいいじゃん、とまったりした考え方の子が提案者だったんだけど。ま、提案そのものの善し悪しはどーでもいい。自分の人生の話なんだから自分で考えりゃいい、以上——でおしまいな話だから。驚いたのは、「いや、もっと精一杯努力して生きるべきだ」という考え方の若者の口から「根性」という言葉がばしばし出て来たこと。

根性。これは、僕のもっとも嫌いな日本語だ。こんなくだらない言葉、考え方、観念は一刻も早く滅びてこの世からなくなってしまえばいい、と強く願うのだけど、今の若い世代の中にさえ、この「根性教の信者」が多数いることを知って驚愕してしまったのだった。

なんなんだ、「根性」ってのは。「苦しさに耐えて成し遂げようとする強い精神力(大辞林)」なんだそうだけど、これは間違いだ。これなら単に「忍耐強さ」といえばいいだけであって、根性とはニュアンスが異なる。なにしろ根性は、曲がったり、入れ替えたり、たるんだり、鍛えたり、時には腐ったりもするし、よい根性だの悪い根性だのがあったりもするのだ(ビフィズス菌かお前は)。ただの精神力にそんなややこしい性格などあるわけがない。「いい忍耐強さと悪い忍耐強さがある」なんて話は聞いたことがないし、「我慢強さが腐った」なんて人に出会ったこともない。となれば、これはもう、そうした「性格や精神力うんぬん」とは別の次元の存在としか思えない。

では、根性とは何か。それは、「無根拠な精神論全般」のいいわけのために生み出された言葉である。世の中には精神論の類いがごまんとあるが、その中で、「論理的、科学的、宗教的、哲学的といったきちんとした体系に基づき説明のつくもの」以外の、どれにも当てはまらない無根拠な精神論を説くためにどこからともなく現れた便利な道具、それが根性である。

今でもスポーツの世界などでは、この根性というやつが登場する。面白いのは、スポーツをきちんと研究し考察している監督やコーチは、決してこんな言葉など使わないのである。根性という言葉を口にするのは、いつも決まって「自分が正しいと信じているという以外に何の論拠もない特訓や練習」を選手にやらせるような類いの人間なのだ。

根性の特徴、それは「すべての反論を封殺することができる」という点にある。「この訓練の成果は何ですか?」などと聞く人間には、「きさま、そんなことをいうのは根性が腐ってるからだあっ!」と一括すればすんでしまう。また、「何の理由もなく、人を偉く見せる」という特徴もある。何の取り柄もない自分を「根性だけはある」と誇ることができる。

根性は、それを自ら振り回して武器として使える。多くの精神的な力と根性の最大の違いはここいらへんにある。精神的な能力は、誇れない。というより、そんなもんを自分から誇るような人間が精神的に優れているとは誰も思わない(笑)。ところが、根性というやつは、自分で自分の売り文句として使えるのである。「僕は忍耐強い人間です」なんてこっ恥ずかしいことをいう人間なんてあまりいない(というか、そんな恥ずかしいことを口にすることさえ我慢できないやつが我慢強いわけがない)。けれど「僕は根性あります」と平気でいう人間はけっこういる。

根性は、日本においては無条件に美徳であり立派なものであるとされる。根性は、上の人間にとっては自分の横暴さを覆い隠し、下のものにおいては自分の無能力をカバーする。きちんとした論拠を示さず曖昧模糊とした精神論を簡単に正当化することができる。だからこそ、僕はこの言葉が大嫌いである。

人間は、そんなに単純じゃない。忍耐強さは大切だけど、忍耐強いだけの人間が立派なわけではない。人間には様々な性質や性格が入り交じっているわけで、それがトータルで人の人格を形作っている。人間というのは、そういう複雑なものなのだ。——だが、「根性」は、人間のそうした複雑なありようをすべて否定し、ただ一つの物差しだけで人間を評価できるかのような錯覚を与える。

イチローも野茂も、中田も、根性なんて言葉はまず使わない。そんなものを使うのは二流の選手だけだ。「一流にはなれないけど頑張りましたぁ!」というやつ、いるでしょ? あれね。根性なんてものは、一流でない証明なんだ。ダメなやつほど、この言葉に頼るのだ。すべての根性教の信者諸君。今日から、根性を入れ替えるように(笑)。

公開日: 土 - 8月 7, 2004 at 07:29 午後        


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