ネットの中に現実はあるけど見えない人


またしゃべり場の話であります。石田衣良、うざい。もう出ないでくれ。

このところ、娘が夜寝てくれない。なもんで、「寝静まってからの夫婦の密やかな楽しみ(テレビを見る)」がなかなかできないのであった。今朝になって、まだ娘が寝てるうちに起きだして、ようやく2日遅れで「しゃべり場」を見ることができたのであった。なんでこんなコソコソ見なきゃならないんだ?

で、今回、「ネットの中にだって現実はある」ということで、人生相談のサイトをやっている16歳の子(笑)が出てきていろいろ訴えておりました(どーでもいいが、16歳の子に人生の何たるかを教え諭されるってのも考えようによってはすごい体験だよな。一度、相談してみちゃおうかしらん)。話の内容よりも、ゲストの石田衣良がうるさくてかなわんかった。この人の頭の中には話し合う前からもう結論が出来上がってて、自分の結論にあわないことを述べる子に反論したり、途中で茶々入れして自分の思う方向へ議論を向かわせようと企んだり、ほんとに迷惑だった。もう出ないでくれ。——と、とりあえず文句だけいっておいて。

ま〜なんだね〜、ネットの中だけで生活しちゃってると、こういう現実感のない考え方の人ができちゃうんだね〜といった感じの子だったんだけどね、提言者の子は。ま、当然というか、なるべくしてというか、ほとんどみんなそれに反応せず、「でもネットでしょ、以上」という感じで、その点は「は〜まだまだそういうところではみんなまともだな」と安心したりしたんだけど。

提言者の彼女がね、こう力説するのがなんとも妙な感じがしたのだね。「みんなはネットのことをよく知らないからそういう偏見の眼で見てるけど、あたしはネットをよく知っているの」と。だから、よく知らずに偏見を持った眼で見ているみんなは実は正しい姿を見ていなくて、よく理解しているあたしのいうことが正しいのよ、と。——すごい。彼女は、16歳にしてネットの世界を完璧に理解しているようなのだ。僕なんぞは尊敬するしかない。僕なんか、インターネットが生まれる前から(下手すると、この子が生まれる前から)ネットに入り込んでいるけど、未だにこの世界がどういうものなのかうまく理解できないでいるのに。

「あたしはネットがどういうものかわかってる。だからネットの中に現実があるとわかっているのよ」と主張する彼女。16歳で「ネットをわかってるんだ」と何の疑問も抱かず思えるところに、僕はなんというか彼女の危うさを感じたんだけど、ま、それはいいとしよう。だが、例え「ネットがわかっていた」としても、16歳の彼女に「現実」はわからない。そのことに彼女は気づいていない。ネットの中では、現実の「一部」しかない。チャットやメールでは、「文字として伝えることのできないもの」は伝えられない。そして、ネットの中では、「ネットに参加できる能力を持った人間」しかいない。それは、現実のごくごく一部でしかなくて、現実そのものではない。例えば、もの言わぬ赤ん坊の姿はネットの中にはない。「赤ん坊の存在しない現実」などというものを残念ながら僕は想像することなどできないのだ。

ときどきこういう「ネットにだって現実はある!」と叫ぶ人というのは見るんだけど、その多くが「単に自分の回りの現実を現実だと受け入れたくないだけ」であるような気がする。例えば、辛いこと、悩んでいることがあった。回りの友達は誰も真剣に受け取ってくれなかった。ネットでは、見ず知らずの人が真剣に返事をしてくれた。そして「ここに私の居場所があった」と思う。そして「ネットにだって現実はあるんだ」と主張する。——そうじゃない。「回りの誰も自分を受け入れてくれなかった」ということこそが、現実なのだ。誰も自分のことを真剣に考えてくれない、自分の力になってくれない。それは、そういう人間関係しか自分が築けなかったからだ。友達が自分のことを真剣に考えてくれないような自分だったからだ。それが「現実」なのだ。

現実というのは、常に自分にやさしく、自分を理解し、自分を受け入れてくれるわけではない。時にははじかれ、理解されず、理不尽な扱いを受けることもある。それは、それが現実だからだ。常にみんなが理解してくれ、自分を受け入れてくれる。そんな場所は、現実ではないに決まっている。自分にとってだけ都合のいい現実などこの世の何処を探したってあるものか。考え方も生き方も異なるあらゆる人間が、すべておのれの理想を手に入れることが可能ならば、この世に争いなど起こりえない。自分にとってだけの理想が全てというところから、一体どれだけの争いが生まれ、どれだけの人々が傷ついていったことか。自分が決して受け入れることのできないものをお互いに受け入れ合う、そこから現実の世界は始まるのだ。

自分が認めたくないことを受け入れられるか。それを「受け入れざるを得ないのだ」と腹をくくったときに、「現実」というものがどういうものか見えてくるのでないだろうか。自分が見たくないものから眼を背け続けている人間には、どんな場所であれ「現実」は見えない。逆に、その覚悟がある人間なら、ネットの中だろうと何だろうと現実をとらえることはできるだろう。

結局、「ネットの中に現実があるかどうか」が問題ではなく、「自分に現実が見えるかどうか」が問題なんではないのかな、と思ったのでした。提言者の彼女へ。君の眼は、節穴です。

公開日: 日 - 10月 3, 2004 at 06:55 午後        


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