妥協は悪い?


妥協は悪いことなんだろうか? 妥協できない人間のほうが悪いと思うんだけど。

またも、しゃべり場の話であったりする。最近、ネタ不足だねえ。テレビあんまり見ないし、頭に刺激はあっても琴線に触れる情報があんまり入ってこないのかも。

で。今回、「本気で喧嘩しよう」とかいうようなテーマであって、「ほうほう」とちょっと興味を持ったのだけど、その子のいってるのは、ほんとにただの「殴り合いの喧嘩」のことで、こっちが考える「本気の喧嘩」ってのは想像すらしてないみたいなのであった。うーむ。自分のプライドがなんたらとか自分の存在が否定されるのがどうたらとか、まーいわんとすることはわかるけど、結局「自分一人というものすごく狭くて小さなことに関する喧嘩」しか頭にないようなので、あんまり相手をする気にもなれない。——ま、ここでいいたいのは本論とは全然関係ない話なんだけどね。

話を聞いているうちに、ふと思ったのが「妥協」というものについてなのだ。——彼らは、みんな「妥協」というものが悪いことであるように思っているのだね。その対極にあるのがどうやら「自己主張」らしい。っていうか「自分の主張を通す」ってことだね。つまり、自分を主張しそれを貫き通すことが正しく、妥協することは悪いことなんだ、ということがもうみんなの頭の中には大前提としてあるようなのだ。——そういえば、若い頃ってのは確かに妥協するってことに対する拒否反応みたいなものがあったようなあ。と自分の十代を思い出しつつも。

大人になるっていうのは、妥協できる人間になるということなのかも知れないな。とふと思ったのでした。妥協というのは、「対立する両者がお互いの主張を譲り合うことで意見をまとめること」(大辞林)なんだそうだ。なるほど、非常にわかりやすい解説やね。つまり、この「譲り合う」というところに不正なものを感じるのだろうね。自分は正しい。正しいのに、それを引っ込めて相手の意見を取り入れる。それは不正ではないか。正しいと信ずるものをあくまで貫くべきではないのか。そういう意見。

「正しいと信ずることを貫くべきだ」——それは、間違いである。僕はそう考えている。僕ならばこういいたい。「正しいと信ずることを疑うべきだ」と。この世界のあらゆる災厄は、多くの場合、「誤った邪悪な考え」から生ずるのではない。そのほとんどは「正しいと信ずるもの」から生ずるのだ。人間は、正しいと信ずることについては簡単に盲目になれる。その信ずるものを貫き通すためにはどんな過ちも犯すことができる。

そんなことはない。そう思うだろうか。——だが、番組の提言者は、自分が正しいと信ずることのために、暴力という過ちを犯すことを簡単に容認していた。そして、そういう場合の暴力は正しいと信じてやまないようだった。「うざい」だろうが「死ね」だろうが、どんなことをいわれたとしても、それはたかだか「言葉」でしかない。そんな、ただの「言葉」を投げかけられたぐらいで簡単に暴力という過ちを犯して平然としていられる、それというのもそれが「正しいと信じている」からだ。

「自分が正しいと信じているものは、ひょっとしたら誤っているのかも知れない。自分以外の人間にとって、その正しさは正しさとして受け入れられないのかも知れない」——そう考えることができた時、人は自分の信ずる主張だけをがむしゃらに押し付けることに疑問を抱くようになる。「相手の主張する正しさにも一つの真実が含まれているのかも知れない」——そう思った時、人は相手の意見に耳を傾け、そしてより正しいと思える道を模索し始める。それを「妥協」という言葉で表現するならばそれでもいい。そうしたアプローチが間違いであるとは僕には思えない。「例え自分が誤っていてもそれを押し進めることが正義だ」と思うような人間にだけはなりたくない。——自己主張と妥協は、相反するものではなく、セットであるべきものだ。相手に自己を主張し、相手の自己主張に耳を傾け、そしてお互いの誤りを検証してより良い道を探す。自己主張「だけ」しかない人間、妥協「だけ」しかない人間、そんな人間にはなりたくないものだ。

民主主義というのは、妥協の産物である。そして自己主張の産物は、それは独裁主義だろうと思う。僕は常に、すぐれた独裁主義よりも凡庸な民主主義を選びたい。少なくとも、自分の正しさを他人によって検証されるチャンスを自ら放棄するような人間にはなりたくない。自分というものを、万能ではない、完璧ではない、そう認めることができるようになること。それが成長するということなのかも知れないな。

公開日: 土 - 10月 9, 2004 at 04:53 午後        


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