平凡な素晴らしい一日
天気がよいので、公園にお散歩。それからスーパーへ。
ああ、なんて平凡な、素晴らしい一日だろう。
嫁の風邪もだいぶよくなってきたので、親子3人で公園へ行く。天気はよかったけど、ちょっと風が強かった。子供の姿がなかったので、3人でジャングル滑り台(ジャングルジムと滑り台が合体したようなもの)で遊ぶ。愛娘は最近、すっかり歩くのが得意になった。階段も上るし、雄叫びをあげながら砂地を走り回る。——昨日の晩はベッドに一人でのぼって、更に一人で降りる(後ろ向きに後じさって、足からちゃんと着地するのだ)という離れ業を演じてみせた。やるなこいつ。
それからスーパーへお買い物。「シシャモ一匹8円」というのに絶句し、20匹ほど買う。だって8円ですぜ旦那。10匹買っても80円ですぜ奥さん。そしてキャベツ丸ごと1個50円などサービス品を中心に買いまくる。東京から千葉に移って、すっかり食生活がリッチになっちまったぜ。だってぇ、安いんだもん。
なべて世は事もなし。いや、イラクではフセインが捕まったし、日本では広末ができちゃった婚するし、いろいろ世間は騒がしいけど、我が家に関しては日々平穏無事。幸せとはこういうことなのだよな。
そういえば今朝の新聞に十代の人生相談みたいのがあって、こういうことが書いてあった。「人生で成功するのは一握りの人間だけ。いい大学に行っても就職しても、結局平凡な人生しか待っていない。先行きを考えると自分の人生に幸せが待ってると思えない」・・みたいなこと。そこで、叫ぶ詩人の会のTETSUYA氏が、こういうことを書いてあった。
「幸せとは結果ではなく過程である」
これこれこういう努力をすれば、「幸せという結果」が得られる、わけではない。幸せという結果が得られたら、ずっと幸せが保証されている、わけでもない。そんなのはおとぎ話の中だけだ。人間は、幸福という目標に向かって生きているのではなく、生きていく過程そのものが「幸せ」なのだ。——そうなんだよな。でも、こんな当たり前のことに、若い頃は気づかないもんだ。
「平凡な人生なんて我慢できない」と若いうちは思ったものだ。だけど、そう思っている頭のどこかで「自分は『平凡』クラスはクリアしている。その程度の人生はできるに決まってる」という傲慢が潜んでいることに気づかない。——普通に大学に行って、普通に就職して、普通に結婚して、子供が生まれて、家を買って、ローンを返しながらなんとか定年まで無事に勤め上げて・・。若い頃は、「そんな平凡な人生なんて」と思ったものだ。だが、この「平凡な人生」を無事に送ることがいかに難しいか。実際、自分で社会に出て働く前の人間にはそのことがわからない。オレもわからなかった。
平凡な人生ではなく、成功した人生を。そうすれば、そこには「幸せ」が待っている。若い頃は誰しもそんな錯覚にとらわれる。だが、幸せな暮らしというのはそういうものじゃない。——ウディ・アレンが確かいってた言葉を思い出す。「平凡だが平穏な人生」と、「超有名になり大金持ちになり何でも手に入る、だが死ぬまでずっと虫歯が痛い人生」と、君ならどっちを選ぶ? オレは絶対に後者だけはイヤだな。例え「いや、オレなら後者だ」と思った人がいたとしても、断言してもいい、1年は持たないと思うよ。半年もすれば必ず「お願い、別のに替えてくれ」と泣きついてくるはずだ。そうなんだ、日々が楽しく過ごせなければ、どんな成功も無意味だし無価値だ。逆に、日々が楽しければ、どんな平凡な人生でもそれは大成功だ。そして、実は多くの人間が、こんな当たり前のことができずに苦しんでいたりするんだよね。
日々、平凡な一日を楽しく生きる。これはこれで結構な才能がいることだ。そう思えるようになった。我ながら大人になったものだ(笑)。
公開日: 火 - 12月
16, 2003 at 03:31 午後