「思う」ことと「行なう」ことは違うのに


脳死移植で、本人の意思表示がなくても移植できるように改正しようという動きがあるらしい。脳死には賛成だ、だけど移植には反対だ、という人間の立場は?

脳死の問題っていうのは、難しい。ほとんど宗教じみた話になってしまうからだ。生理学的に見て、「脳が死んだら人間おしまいだ」っていうのはわかる。わかってはいても納得できない。そうなったら、もうこれは議論とかいう問題ではなくなってしまう。そもそも、人間の「死」を議論して決めることができるのか、というほとんど哲学的な話になりかねない。

僕は、脳死論者だ。すなわち、「人の死は、心臓死ではなく脳死で決めるべきだ」という考え方であります。ただし! ここで強調しておかないといけないのが、「移植反対論者でもある」ということ。すなわち、「脳死状態だからって勝手に臓器を他人に移植するのには断固反対」という立場なのであります。そこが、難しい。つまり、なぜか日本では「脳死」というのは「移植」のためにある、というように考えられているから。脳死と移植は本来別の問題であるはずなのに、それが同じものにされてしまっている。

この「同じものにされている」というところが、とても困る。なんとなれば、「脳死賛成」というとすぐに「じゃあ、お前は自分が脳死になったら臓器移植するんだな?」となってしまうから。僕は、臓器移植はしない。というと「そんなのは卑怯だ。脳死賛成なら移植するんだろ? 他人には移植させて自分だけしないなんてムシのいい話が通ると思ってるのか!」というようなことになる。なんで? 僕は、ただ、脳死に賛成ってだけなのに。

日本には、こういう「こう思う=こう行なう」というように、意見と行動が一致しないとダメ!という「言動一致を強制する」向きがある。例えば、夫婦別姓に賛成というと、「じゃあ、お前は奥さんと別の名字にするんだな?」といわれる。同性愛の婚姻に賛成というと、「じゃあ、お前は男と結婚するんだな?(←オレ、男)」といわれる。なぜ? 「世の中は、こうあるべきだ」ということと、「自分自身がそれを実行する」ということとは全く別でしょ?

「自分には不要だ、だが世の中にはこれを必要としている人もいるはずだからこれを行なうのに賛成する」ということが、なぜだか理解されない。そればかりか、今までの慣習と異なるものを実現しようとすると、即座に「賛成する=すべての人間にそれを強要する」というすり替えがなされてしまったりする。「臓器移植に賛成=臓器移植したくない人間の立場はどうなるのか!(←しなけりゃいいだけなのに)」「脳死に賛成=脳死に反対の人間の立場はどうなるのか!(←そういう人はそう思えばいいでしょうが)」「夫婦別姓に賛成=夫婦で同姓でいたい人の立場はどうなるのか!(←だから、そうすればいいでしょ)」「同性愛の婚姻に賛成=ホモやレズでない人間の立場はどうなるのか!(←いや、だからね・・)」・・わけわかんない? おれもわかんない。でも、そういう人って実際、いるんだよね。

重要なのは「権利を確保する」ということだ。自分はやらない、だけどやりたい人が行なう権利を確保する。自分はやりたい、だけどやりたくない人がやらないで済む権利を確保する。——どちらにとっても、もっともさけるべき結末は、「どっちかに全員強制的にさせる」ということ。脳死が正しいか否か、移植医療が正しいか否か、夫婦別姓が正しいか否か、そういう「すべてかゼロか」という見方しかないのはあまりに不自由すぎる。

僕が唯一「絶対的に正しい」と思っていること。それは、「この世には絶対的に正しいものはない」ということ。世の中には100%の正しさなんてない。人それぞれによって「正しさ」なんて違うものだ。立場の異なる「正しさ」をいかにしてお互いに認め合えるか。そこからすべての問題の解決は始まると思うのだ。

公開日: 木 - 2月 26, 2004 at 10:54 午前        


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