適正価格
それが高すぎるときはすぐにわかる。だが、安すぎるときに「不適正だ」とわかる人はいない。
東京都内の大手タクシーの運転手たちが、国を相手に訴えを起こした。しばらく前に国交省が「タクシーの大口利用者の運賃を3割まで値引きするのを認める」という通達を出したんだけど、これを「ダンピング競争を引き起こすおそれがあり、違法だ」として慰謝料を求めてるわけ。
タクシーといえば、しばらく前に「タクシーの価格を勝手に下げられない」逆特区を申請した地方自治体があったり、東京に価格破壊で有名なMKタクシーが来たときに既存のタクシー会社があれこれ圧力をかけたり、どうもあんまりいいイメージはない。企業努力でコストを下げればいいだろ、そういう努力もしないで高いタクシー料金をなんとか維持しようってのか、みたいな感じが強い。僕もタクシーの料金ってのは高いと思うよ。——ただ、それじゃあタクシー会社や運ちゃんがボロ儲けしているかというと、そうでもないんだよね。大半の人は、家族がかつかつ喰っていけるぐらいの収入しかなかったりするという。新規参入が増えて価格競争になって、しわ寄せが全部タクシーの運ちゃんにいっちゃっているようなところがある。
僕らは常々、あらゆるものに向かって「適正な価格を!」と叫んでいる。「その値段は高い、もっと安くできるはずだ」と。そしてデフレの昨今、確かにあらゆるものは「更に安く」とばかりに価格破壊を繰り返してきた。——だが、「適正な価格」とは果たしてどういうものなんだろう。僕らに、そんなものがわかるのだろうか。なぜって、僕は今まで「高すぎる!」と叫ぶ人はたくさん見てきたけれど、「安すぎる!」と叫ぶ人は見たことがないからだ。「適正」というなら、高いものを安くするのは勿論だが、不適正に安いものをもっと適正な価格に引き上げるということだってあるはずだ。だが、そうしたことを口にする人は世の中にまずいない。
結局、僕らが口にする「適正な価格」というのは、ただ単に「もっともっと安い価格」という程度の意味しかなかったりする。たとえ原価割れして利益が出ないような値段であっても、自分にとって手が届かなければ「もっと適正な価格にしろ!」と人は叫ぶのだ。
だが、価格を下げるということは、売り上げを増やすことができなければ、そのまま収益の低下や働く人間への負担という形で跳ね返ってくる。低価格化により利益を損ないそうになると、企業は、より下の会社、より弱い会社に「もっと安くしろ!」と要求する。要求された会社は泣く泣く値段を下げ、更に弱い会社へとそのしわ寄せをもっていく。・・そうして一番弱いところから順に朽ち果てていき、その一方で一番上にいる会社は「コストの削減により低価格化を実現しました!」と胸を張る。
多くの低価格化は、そうした「一番弱いところから順に死んでいく」仕組みによって維持されている。そんなことは誰だってわかっているはずだ。はずなのに、僕らはなんとなく「目先のお得感」につられて、ひたすら安いだけのものを追い求めてしまう。そして、適正な価格であるはずのものにさえ、自分にとって高ければ平気で「適正な価格にしろ!」と要求する。まだ、自分の番は回ってこない。まだ、自分の会社は、自分の店は、死ぬ番ではない。そう信じながら。
僕は、別にタクシーの運ちゃんを擁護したいわけではない。実際、タクシーの価格が本当に適正なのかどうか、僕には判らないのだから。ただ、おそらくタクシーの運ちゃんっていうのは、世の中の職業ヒエラルキというピラミッドにおいては、決して上の方にあるものじゃないだろう。おそらく「弱いものへのしわ寄せの連鎖」が起こった時、一番最初に殺される辺りにいるんじゃないだろうか。その彼らのあがく声を、僕らは笑って聞いてはいないか。
・・嫁は、たまにものすっっっごく安いものを見つけたりすると、「大丈夫かしら?」という。この「こんなに安くて大丈夫なのかしら?」という目を持つことは、案外、今のデフレの時代に大切なことなのかも知れない。——何が適正かを見抜くのは確かに難しい。だが、少なくとも「不適切に安い価格」を偉そうに要求するような人間にだけはならないようにしよう。なにしろ、僕は決してピラミッドの上のほうにいるわけじゃないんだから。
公開日: 火 - 1月 18, 2005 at 05:40 午後