「違い」と「優劣」
「違いがある」ということと「優劣がある」ということは違う。でも、それを区別できない人って多いね。
お昼にテレビ見ながらご飯(本日はパパ特製のソース焼きそば。んまいんだこれが)を食べていたんだけど、どういう経緯からか、ワイドショウで「男らしさ、女らしさ」といったことについてなにやら話をしていた。——曰く、昨今の若者は男らしさ、女らしさがなくなってきた云々。一方で「ジェンダーフリー」とやらで「男女に差はないんだよ」と教育しておきながら、「男らしくなくなった」もないもんだろ、と思うんだけど、そのへんは微妙に触れるような触れないような扱いであった。
で、番組のアナウンサーがしきりと「男と女に違いなんてあるんですかね?」とかいっていたのを、「まーた○○さん、わけわかんないこといってるよ」と夫婦して突っ込みまくる。——あるいは、独身だからそういうことがいえるんでないか? 実際、子供が生まれると「こんなちっこいうちから女の子は女なんだわ〜」と思うもんだよね、などとね。いや、「子供を産んだことがない人間にはこれこれこういうことはわからん」っていい方は独身者の神経を逆撫でしてしまうのでそれは脇において。
こういうとき、「男女平等的立場の人」は必ずと言っていいほど「男女に違いはない」と発言するのが、実に面白いなぁと思うのでした。多くの人は、「男女平等=男女に違いはない」と思ってるんだろうか。そこが奇妙だなと思う。だって、違うじゃん?
「平等」とは「違いがない」ことではないと思う。「違いを認め合えること」じゃないだろうか。男女の間に「違い」はある。これはもう、肉体的な構造からして違うんだから「絶対にない」とは言い切れない。——ただし「優劣」はない。そこが「男女平等」たる部分ではないかと思うのだ。「男女に違いはない」というのと「男女に違いはあるが優劣はない」というのは、微妙に違う。「違いがあるならどっちかが優れていてどっちかが劣っているに決まってるだろ」と思う人。じゃあ、例えば100メートル走の世界一とマラソンの世界一はどちらが「優れている」の? そんなもん、決められるわけないじゃん。でも、「違い」はあるよね? お互いに違う。違っていることをお互いに認め合える。違っているところを「優れている」とか「劣っている」とかいう見方でなく、お互いに尊重し合える。それが平等ということじゃないか。
この世に完全なる平等なんてない。生まれながらに貧乏な人間もいるし、一生遊んで暮らせる環境に生まれた人間もいる。非常にわかりやすい才能をたくさんもっている人間もいれば、自分の取り柄がどうしても見つけられない人もいる。悲しいけれど、世の中はそういうふうにできているのだ。そうした現実を、まるでないものかのようにして、かりそめの「平等」を叫ぶ。それは正しいあり方だろうか。現実にある「違い」をないものかのようにして扱うことが本当の「平等」につながるとは、僕にはどうしても思えない。人は皆、違っている。それを認めたその向こうに、本当の「平等」というものがあるんじゃないか。
今や、幼稚園ではバレンタインデーに親が集まり、「もらえない子がいるとかわいそうだから」ということで、全員に同じチョコを送るんだそうだ。そうやって「みんな同じ」なのが平等なの? では、「好きな○○ちゃんにだけあげたい」という子供の気持ちはどうなるの? もらえない子がいたっていいじゃない。それで悲しい思いをしても、それはそれでいい経験だ。いや、そういう経験をする機会を「平等」という名のもとに取り上げてしまうのが本当に正しいことなんだろうか。——すべての人間が違いを持たない、すべての人が何もかも同じ社会なんて、そんなの「買った人全員が当たる宝くじ」ぐらいにつまらないよ。
鈴と、小鳥と、それから私
みんな違って、みんないい (金子みすゞ)
公開日: 水 - 2月 18, 2004 at 06:45 午後