感情的反戦論は何も生まない?


「命は大切だ」「犠牲になった人の気持ちを想像して欲しい」という感情論だけによる反戦論が、戦争をなくすことに貢献できるだろうか?

はい、週末の夜といえば、しゃべり場でありますね(笑)。今回は、「戦争をなくすために我々十代に何ができるか」みたいな話だった。で、提言者の中学生の女の子が一所懸命に「戦争はなくさないといけないよ!」と主張していた。のだけど・・。はっきりいおう。彼女の言葉は、誰にも届かない。そのことに彼女は気づいていない。実は、ゲストのピーター・バラカン氏や、メンバーの何名かはそういうことに気がついていていろいろと話の展開を図っていたのだけど、提言者の彼女はそのことにまっっったく気がつかないようで、ただひたすら、自分の思うことだけを繰り返し訴え続けるのだった。その姿に、なんというか「感情的反戦論の典型」を見たような気がしたのだ。

日本では、「反戦」というと、その大半が「感情による戦争反対」で占められているような気がする。「命は大切だ、だから戦争はいけない」とか、「おじいちゃんは戦争に行って、その話を聞かせてくれた」「おばあちゃんは空襲の話をよくしてくれた」だから戦争がどれだけ悲惨なものか知ってる、だから戦争はしちゃいけない——そういう意見。もちろん、その意見はよくわかる。だが、なんというのかなぁ、そういう「ただひたすら繰り返される感情論」を耳にする度に、歯痒さというか苛立ちというか、そういうものを感じざるを得ないのだ。なぜなら、そうした感情論を百万遍繰り返しても戦争をなくすことなどできないだろうことがなんとなくわかるからだ。

戦争は悲惨である。戦争は多くの人の命が失われる。だからすべきではない。そんなことは誰だって知っている。知っているのになくならないのだ。どんなに悲惨であり多くの犠牲があっても、戦争をしなければならないことがある。そう思う人がいる。そのことを理解しない限り、「なぜ戦争は起こるのか」はわからない。——なんというか、提言者の彼女の中には「戦争は悪い人が始めるもの」みたいな、ものすごく幼稚な「戦争をする人のイメージ」しかないようなのだった。

例えば、第二次大戦という戦争があった。ヨーロッパではヒトラーのナチスドイツと戦うために多くの国が戦った。では、「戦争は悲惨だからやめよう」といって、どの国も戦争を行なわず、ただナチスドイツにされるがままだったらどうなっただろうか。「戦わなければ、自分の命などより遥かに尊いものを失ってしまう」というとき、人はそれでも戦いを放棄できるだろうか。

最近は「テロ」というものも戦争に近いイメージでとらえられている感がある。ニューヨークの同時多発テロでは多くの犠牲者があった。だから「テロは許してはならない」と叫ぶ。もちろん、それは正しい。だが——想像してみよう。あなたの愛する両親、おじいちゃんおばあちゃん、兄や姉、妹や弟。それらがあるとき、何の理由もなく殺される。女は強姦され、男は足かせをはめられ奴隷とされ、生涯人間としての人間らしい暮らしが失われる。自分の子供も。孫も。そのすべての子孫達も。戦わない限り、戦って敵を倒さない限り、自分だけでなく、自分にとって大切な人々すべてが、この先永遠に苦しみ続けなければならない。そのとき、もし多くの仲間が「戦うしかない」と思ったとき、あなたは「戦争はいけない」というただそれだけの理由のために、仲間とそして自分達の後に続く子供達全てを敵に売ることができるか。「戦争はいけない」というだけのために、自分や自分の大切な人々全てに生涯奴隷であり続けることを強いることができるか。

戦争は、一部の悪人が始めるわけではない。もちろん、そうした戦争もあるだろう、だが多くの戦争は、「正義のため」に開始される。自分や自分にとって大切な人々の命を守るため、あるいは命よりも遥かに尊いものを守るために開始される。——「命は尊いものだ」だから戦争はしない、そういう人はいる。だが時として、戦争を否定するためには、より多くの人の命や、命より遥かに大切なものを犠牲にする覚悟が必要となることもある。「戦争をしないためには多くの人の命を犠牲にしなければならない」となったとき、「命は大切だ」という感情的反戦論がどれだけ説得力を持つだろう。

「お前は戦争を肯定するのか」と思った人もいるかも知れない。だが、それは違う。僕は戦争反対論者である。だが、そのためには「戦争やテロという選択肢を選ばざるを得なかった人々」を理解することこそが重要だろうと思うのだ。なぜ、そうせざるを得なかったのか。それを回避する道はなかったのか。そうしたことを考え、分析していく。そうやって「戦争という道を選ばざるを得ない状況に陥らないための道」を模索していくことでしか、戦争をなくす道はないのではないか。

提言者の彼女は「想像してみて欲しい」と何度も訴えていた。この言葉は、日本の多くの反戦論で展開されているように思う。悲惨な戦争を経験した人の話を聞こう、戦争がどれだけ悲惨なものか想像してみて欲しい、そういう言葉。——だが、その「想像」の中には、「戦争という手段しか選ばざるを得なかった人々の気持ち」は含まれない。「テロをなくせ」という人々の「想像」の中には、「テロという手段を選ぶしかないまでに追いつめられた人々の気持ち」は含まれない。

なぜ、戦争は起こるのか。なぜ、人は憎しみあうのか。——例えば、なぜ日本人はアジアで嫌われるのか。アラブ人はなぜ米国を憎むのか。それには、必ず理由があるのだ。そして理由がある以上、その要因を取り除くことはできるはずだ。そうして憎しみの芽を1つ1つ摘んでいくことが、戦争のない社会へつながるのではないか。

なぜ、ユニクロの服はあんなに安いのだろう。それは日本などより遥かに低賃金で働く人々が世界にいるからだ。なぜ中南米やアジアでは日本の中古車がたくさん走っているのか。それは先進国では排ガス規制が厳しくなったため、排気ガスを多量に出し大気を汚染する古い車はみんな発展途上国に押し付けるようになっているからだ。——僕らは平穏な日々の中にいる。その平穏な日々は、多くの国の犠牲の上に成り立っているのかも知れない。それを取り除くことなしに、憎しみの芽はなくならない。日本の平穏な暮らしを何の疑問もなく甘受し、一方で「戦争は悲惨です、なくしましょう」と訴えても、そのために犠牲を強いられている国々に果たして届くものだろうか。

ただ声高に「戦争は悲惨だ!」と叫ぶことから何が生まれるだろう。そのことを、僕らはそろそろ考えなければいけない。「戦争は悲惨だ」という、その更に一歩先の世界を。「やめよう」と叫ぶだけでやめられるものなら戦争などとうの昔になくなっている。もういい加減、「感情論による声高な戦争反対」では何も変わらないことを認めるべきではないだろうか。そのことにいつまでも目をつぶっているのはよそう。そのことを認めた上で、その一歩先にあるものを模索していく。単なる感情論を超えたところから、本当の反戦は始まるように僕には思えてならないのだ。

公開日: 土 - 10月 23, 2004 at 06:50 午後        


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