どういう意味?


「これって、どういう意味?」——という問いが、最近あまりされなくなってきたような気がする。誰もが「なんでもわかっている」と錯覚する時代なんだろか?

うちの嫁は、よく「この字、どういう意味?」と聞く。例えば、見慣れない漢字などを見ると、そう尋ねてくる。「どう読むの?」ならわかる。これは普通だ。そうじゃなくて「この漢字の意味は何なの?」と尋ねてくるのだ。こっちもそこまではわからないことが多いから、2人して辞書で調べたりすることになる。外国語でもそうで、商品名とかインターネットのサイトとかで見慣れない単語を見つけると、とりあえず辞書を引く。——我が家のリビングには、そんなわけで辞書がやたらとある。国語辞典に漢和辞典、英和、和英、フランス語、なぜかパパが仕事で使う数学事典なんてのもある。六法全書も、いうなれば「法律の辞書」みたいなもんだな。特に漢和、英和、仏和あたりの出番は実に多い。

思えば、学校教育で「意味」を教えられた経験というのはどのぐらいあっただろうか。漢字の読み方、書き方は確かに教わった、けれど「意味」は教えられただろうか。大化の改新の年号と登場人物は暗記させられた、けれど「意味」は教えてもらったろうか。よく「微分積分なんて勉強したって社会に出て必要になることなんてない」とか嘯く人を見るけれど、これも微積分という学問の「意味」を教えられなかったからじゃないか、とか考えたりする。

この世に存在するすべてのものには「意味」がある。けれど、そのことを忘れ、さまざまな事象の「意味」を考えなくなっているような気がする。「人生の意味」だの「生きる意味」だのといった「自分の存在意義」に関する結論のない事柄はくよくよくよくよと考え込み人生相談の先生から占い師に至るまであらゆる人に尋ねて回るのに、自分以外の存在の意味については、無視されたり、表層的な理解で済ませられたり、適当に自分に都合のいい解釈を思いついたところで終わったりする。人生の意味なんて、そんなものは「ない」のだ。なぜって、それはあなたがこれから自分で作っていくものじゃないか。そういう、自分で考えるべきことについて他人に教えたもらいたがり、他人に問うべき事柄については知ろうとしない。そういうことが多すぎるんじゃないか。

前に、小泉首相が国会答弁で、イラクへの自衛隊派遣に関係して墨子の言葉を引用して弁明をしていた。それを見て、「ああ、この人は墨教の『意味』を知らずに使っているのだな」と思った。——墨子の思想は、究極の「戦闘的平和主義」である。いかなる侵略行為も断固として認めない、実力を持って徹底的に侵略を排除する。墨子は、どこの国であろうと、他国から侵略を受ければ、子弟を伴ってその国に飛び、あらゆる方策をもって国を守った。その防御に特化した戦略は戦国時代最強のものとされ、墨子が守る城はどんなことがあっても決して落とせないと恐れられた。そこから「墨守」という言葉さえ生まれた。——墨子が今の世にいたなら、彼はすぐさまイラクに飛び、あらゆる手段を使って米軍の侵略からイラクを守っただろう。そのような人の言葉を使って自衛隊派遣を言い訳する、その悲しさ。一国の総理大臣でさえそうなのだ。いわんや、一市民においてをや。

もっと、この言葉を使おう。「どういう意味?」——この言葉を。娘がしゃべるようになったら、まずこの言葉の使い方を教えよう。意味を尋ねることの重要さを娘に教え、そして、安易に答えて解決することの愚かさを僕自身に教えよう。

公開日: 木 - 2月 5, 2004 at 04:06 午後        


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