真の武士・・なんてものを立派だとありがたがる人間がこんなにいようとは。
「新選組!」のことを書いたら、今朝方、嫁が「ほぼ日に新選組!のこと書いてあったけど、パパの感想とはだいぶ違うみたい」と教えてくれた。で、「ほぼ日刊イトイ新聞」
を見てみる。ありました。糸井さんを中心にした座談会なんだねこれ。更には読者からの感想とかもたくさん載っていてなかなか読み応えがありました。が。
感動してる・・。みんな、泣いている。いや、最終回の一つ前の「流山」って回のを読んだんだけど、なんちゅうか、みんなして号泣しているよ・・。わからん。僕には皆目わからん世界がそこには広がっておりました。——糸井さんたちは完全に「ドラマとして」楽しんでいるのだろうね。途中で「史実としてこの先どうなるかは知ってるんだけどうんぬん」とか出て来たりしたし、虚構として楽しんでいるのだろうと思う。が、座談会の後にあった読者からのメール。・・怖い・・。何が怖いって、なんか「新選組!」を真に受けている感じの人がけっこういる・・。ドラマとして純粋に楽しんでいる人も割と多いようで、それは安心したのだけど、前に書いた「大河ドラマだから本当のことだとすんなり信じてみてしまう人」がやっぱりかなりいるみたいだ。どーするよ三谷さん。 ま、「誤解が広まる危険」については既に書いたから改めて触れるのはよそう。ざっと読んでいって、「感動した」という人たちの文章に、なんとも居心地の悪い感覚がしたのだった。その要因は、たぶん「武士」というものに対する見方の違いなのだろうと思う。糸井さんたちの座談会でも、読者メールでも、とにかく「武士」という言葉が何度となく登場した。 いわく、「武士らしく・・」 いわく、「近藤勇は本当の武士だ」 いわく、「真の武士だ」 ・・・・・・・ ・・なんというか、「武士」というのを、「立派なもの、ある種の理想の人間像」のような感じにとらえている人がずいぶんと多いことを知って、ちょっとショックだった。素朴な疑問が僕には湧いてくる。「なぜ、武士というのをそんなに立派なものだと考えるのか?」という疑問が。そんなに武士ってのは立派なものだったの? それが僕にはわからない。どこが? どういうところが「立派だ」と思えるのか。 僕なりの解釈からするなら、武士というのは「ヤクザが公務員になったようなもの」だと思っている。親分に対しては絶対的な忠誠を尽くす。市民の前では威張り散らし、気に入らないことがあれば切り捨て御免で殺してしまう。自分たちでは何も生産的な労働をせず、市民から巻き上げた金で喰ってる連中。そういう奴らではないのか。——よく「武士道」なんて言葉を口にする人がいるけど、武士道というのは「主君に対する絶対的な忠誠」を最重要視した道徳観念だ。自己犠牲、礼儀作法、質素倹約、文武両道に励むのが武士の勤めとされていた。そんな暮らしはとても自分にはできない、そういう生き方をして来た武士は立派だ、と思うんだろうか。 忘れてはならないのは、「彼らは特権階級であり支配階級だった」という点だ。江戸時代、武士は平民とは明らかに違う、特別な階級の人間だったのだ。そしてそうした人間たちが人々を支配していくためにもっとも都合のいい考え方として作り出されたのが武士道だったわけだ。主君に対しては絶対的に服従。常に刻苦勉励し、国のために自分を犠牲にして働き、倹約し慎ましく暮らす。支配者からすれば、これほどに便利な「権力の手先」はいない。そういうのを育成するために考えだされたものじゃないか。——権力は腐敗する。絶対的権力は、絶対的に腐敗する。階級を保証された武士たちは、当然のことながら腐敗する。刻苦勉励など大半はしなくなり、権力と金が武家社会を支配する。江戸も後期になれば、まともに剣術のできる武士の方が珍しかったくらいだ。 「だからこそ、真の武士が立派なんじゃないか」——違う。この「刀もできず勉学もたいしてわからず、たま〜にお城に行って退屈な仕事をするだけで、後は黙っていても入ってくる収入でぶらぶら生きているろくでもない連中」こそが、真の武士の姿なのだ。武士道の示す武士の姿は「支配者にとって理想的な武士の姿」でしかない。そんなものをありがたがるという時点で、どこか間違えてないか。 僕が「怖いな」と感じるのは、「真の武士」だの「武士は立派だ」だのという人の多くが、自分を「武士側」において物事を見ている、という点だ。彼らは、常に「支配する側」からものを見ている。だから、武士が立派に見える。だが、その下で常に圧政に苦しんできた平民の側から見たなら、武士なんてものは自分たちから血を吸って生きているダニみたいなものにしか見えないだろう。彼らからすれば、どんな立派な武士も、武士は武士である。いるだけ無駄、死んでくれればなお結構、そういう連中でしかない。 「武士道」だの「真の武士」だのといったものは、支配者側に都合のいいものとして生み出されただけに、権力者によって容易に今の時代に当てはめて用いられてしまう。武士道的な考え方は、その後もずっと生き続け、「お国のため」「天皇陛下万歳」へとつながっていったのではなかったか。そうしたことまでをも踏まえて、なお「武士は立派だ」といえるのか。 武士だの武士道だのというのは、大昔の話ではない。今でも、世の中がほんのちょっとおかしくなれば、権力者によって容易に復活する代物なのだ。例えば日本が本格的な軍事国家となり、今以上に戦争に本格的に参入するようになったとき、「武士道」というものが権力者にとってどれだけ便利な道具となるか。——だからこそ、僕は、そうなる前に徹底的にこの「立派な武士」という感覚をぶちこわしておきたいのだ。少なくとも「主君への絶対的な忠義」なんてものを立派と思うような人間を少しでも減らしたいと思うのだ。「武士道? へっ、バカじゃねーかお前」というぐらいがちょうどいいんだよきっと。 「近藤勇は立派な武士だった」などといって号泣していた人たち。自分が、新撰組に殺された名もない志士の子供や兄弟だったとしても、そう思える? ドラマなんだから感動するのはわかるけど、「感動した=新撰組は立派だ=真の武士は立派だ」みたいな錯覚を起こさないようにね。頼むよほんと。 公開日: 火 - 12月 14, 2004 at 07:10 午後 |