健全な精神
・・は、健全な肉体にだけは宿らない気がするんだけど。
・・なんか「ブログに書いておこう」と思ったまま忘れてたことがあった気がしたんだけど、昨日、娘と録画していた「トリビア」を見ていて思い出した。——トリビアで、こういうのがあったんだよね。「剣道では、一本とった後でガッツポーズをすると取り消しになる」っていうの。で、その証拠(?)ビデオってのが流れたんだけど。
一本とった後で、元の位置に戻りながら、仲間に向かって小さく(ほんと、軽く10センチほど腕が上下するくらいの)ガッツポーズを送った。そしたら、観客から「あ、ガッツポーズした!」と声が。そして、一本取り消し。見ていて、目が点になる思いでありました。剣道では、そういう剣道の精神にふさわしくないような行いをした場合、審判の権限で判定を取り消せるんだそうだ。なんとまぁバカげたことを。
日本では、未だに「スポーツによって心や精神を鍛える」という考え方が根強くある。どう見たって鍛えてるのは体だろうが、と思うのだがそうではないらしい。「健全な精神は健全な肉体に宿る」という誤った考え方も根強い。あの格言は、本来は「健全な肉体に健全な精神を」というのが正しいことを知らないのか。それはすなわち、「人並み以上に優れた肉体を持つ人間に健全な精神を持たせることがいかに難しいか」を説いたものなのだ。それが、日本ではいつの間にか、「肉体を鍛えれば健全な精神が育つ」という正反対の意味になってしまった。じゃあ、身体障害者や病気の人間はみんな精神が健全じゃないってのか。——大きな試合で一本とって「やった!」と素直に喜びを表現するのは、健全な精神ではないのか。無理矢理喜びを押し殺して無表情でいる方のが正しいのだ、という考え方こそ「精神が不健全」なんじゃないの?
こういうと全国の剣道愛好家に総スカンを食うのはわかっているが、(でもいってしまうが)剣道っていうのは、本来「人殺しの練習」ではないのか。相手の隙を見つけてどちらが先に相手を殺せるか、それをスポーツにしたものではないのか。それが、年月を経て伝統ってやつが育つにつれ、妙に立派そうに偉そうになっていく姿が僕には時に不快に映る。「礼に始まり礼に終わる」「精神を育むのだ」というなら、スポーツでなく、茶の湯のように伝統芸能にしてしまえばよい。
野球の本場といえばやっぱり米国だろうが、その米国で「野球で精神を鍛える」などという人間はいるだろうか。野球ってのは、いわゆる日本人の考えるスポーツマンシップとは正反対のものだ。いかにして相手をダマし、相手の隙をついて勝つか、そういうスポーツである。なにしろ、相手の目を盗んで塁を盗ったり、相手の隙に乗じて牽制して殺したりするのだ。野球に限らず、たいていのスポーツはそうだろう。それが日本にやってくると、「野球道」なんて摩訶不思議な言葉が生まれたりする。心を鍛えることで「ホームベース上でボールが止まって見える」などと言い出す選手が出てくる。——そういや、ちょっと前にイチローが絶好調のとき、インタビューで「ボールが止まって見えました?」と日本の記者が質問していたけど、イチローは笑いながら「いや、動いてましたよ」と答えていた。そりゃそうだろう(笑)。さすがにイチローは精神も健全だ。
スポーツによって、チャレンジャー精神が育つ。集中力が身に付く。忍耐力が鍛えられる。それは僕もそう思う。だが、それらはもちろん、「スポーツ以外のものでも身に付く」ものであることも確かだ。逆に、スポーツによって体を鍛えることで失われてしまいがちなものもある。それは、「健全な精神」である。特に、日本の場合には。——「健全な精神」とは、「自由な精神」のことである。日本においては、意味不明な訓練や特訓や、異常に厳しい上下関係の強要、歪んだスポーツ感や意味不明な精神論などにより、「かくあるべき」と決められた精神の型にはめられ、自由な精神を失ってしまうことの方が多くはないだろうか。スポーツにより、そうした非常に狭い決められた鋳型に精神をはめ込もうとしているならば、それは「健全な精神を育む」とはとてもいえないだろう。
スポーツは、単に「体を鍛える」だけで十分。ついでに、集中力や忍耐力がついたら「お、ラッキー」ぐらいに思っておこう。最初っから「心身をともに鍛え上げるのだ」なんて下手に考えない方がいい。だいたい、「心」なんてものは、鍛えたからいいってもんでもなかろう?
公開日: 金 - 8月 13, 2004 at 12:56 午後