誰のせい?
子供の学力低下がまた話題になってる。それは、誰のせい?
OECDが世界各国における15歳の学力到達度調査というのをやって、その結果というのがニュースで出ていた。この内、総合読解力というやつが前回の8位から14位に低下。その他はトップグループを維持したものの、全体として学力の低下はかなりはっきりと現れて来たみたいだ。今まで、ことあるごとに「日本の子供の学力は世界一だ」などと大嘘ついてきた政府も、「もはや日本はトップとはいえない」とコメントするしかなかったみたい。
この報道で笑ったのは、中山文化相のコメント。「要するに勉強しなくなったんじゃないか。もっと勉強しないとダメだということを徹底しないといけない」——文化相ってのはつまり文部科学省の大臣ってことであって、日本の教育の総責任者なわけだよね。15歳ってのは要するに中学3年生っていうことで、義務教育の一番上の子供たちだ。国が責任を持って教育して来た最終段階の子供たちだ。
昨今の国旗国歌の強制なんかをみればわかる通り、昔と違って今はどの公立学校も「お上のいった通りにやる」ということが徹底して来ている。自分たちで勝手に「こういう教育をしよう」なんてことができない状況なわけだ。「国のいった通りにやってりゃいーんだよ。そんな中途半端なオリジナリティなんていらないの」という態度なわけだ。で、その国の方針に従って、中学国語を従来の4分の3に削った結果、「読解力の低下」という予想した通りの結果が出たわけですわ。それを見て、教育の責任者である大臣は「悪くなったのは子供たちが勉強しないせいだ」とおっしゃるわけだ。要するに「オレが大臣になる前からそうなってたんだ。オレのせいじゃない」といいたいのだろう。責任者は、責任とるためにいるってことを忘れてるんだろう。
この中山という人、「最近になって、従軍慰安婦だのといった自虐的な表現が教科書から減って来たのはいいことだ」などと発言したりしてる、要するに「古き良き日本万歳、第2次大戦に勝ってさえいればよかったのに」という考え方な人間なわけだ。——古き良き日本においては、「勝因は兵に、敗因は将に」というルールがあったことを知らないのか。どんな戦(いくさ)であれ、勝ったならばその勝因はすべて兵卒にある。負けたならばその敗因はすべて大将にある。将たるもの、そう考える度量と覚悟ぐらい持ってるのが当然だったのだ。成績の悪化の要因として真っ先に「子供のせい」をあげる中山という人間は、彼が理想とする古き良き日本においては(も?)「トップとしてもっとも忌むべきタイプの人間」だったりするのは何かの皮肉か。
・・この中山というおっさんを見ていてつくづくと思ったのだけどね。最近、子供や若い世代で何か問題が起こると、「その当事者たち(子供や若者)が悪い」として切り捨てる風潮が強まってる気がするんだよね。だがね、世の中がそうなってきたのは、「そういう世の中を作ろうと大人がして来たから」ではないのか? 「家庭なんか顧みずひたすら働いて金を稼げ」とエコノミックアニマルとしてやってきた結果、経済的に大きく成長し、家庭は崩壊した。「学歴が全てだ、いい大学に行っていい会社に入ることがすべてだ」と受験戦争を引き起こした結果、日本の子供たちの学力はトップクラスとなり、精神的なゆとりは子供たちから失われた。その反省から「もっとゆとりある教育を目指すべきだ」としたのだから、心のゆとりを取り戻す反面、学力が低下するのは予想されたことだろう。一方の魅力を知るためには、もう一方を手放す勇気が必要なのだ。(と、純喫茶マンハッタンの店長もいっていた)
予想していたか否かは別として、今の世の中はこれまでの世代が「そういう世の中にしよう」と努力してきた結果のものであるということを忘れてはいけない。「日本という国をどうしようなんて、そんなことは政治家の責任であって、我々庶民には責任なんてないよ」という人もいるかも知れない。だけど、そうだろうか。多くの人間は、これまで生きてきた中で「よりよい世の中にするために自分たちはちょっと我慢する」「自分たちがいい思いをするために世の中がちょっと悪化するのには目をつぶる」といった二者択一を何度も繰り返し選択して来たはずだ。そして、そうした選択の結果が今の世の中なんじゃないのか。
例えば、先日、任天堂の新しいケータイゲーム機(PSPじゃなくて何だっけ、DSか?)の広告を見ていた嫁が怒っていた。その広告では、縁側でおばあちゃんと孫が2人でゲーム機で絵しりとりをしてたんだけど、「一緒にいて、なんでゲーム機で遊ぶのよ!」ということらしい。この新しいゲーム機は既に大ヒットとなりつつある。そうして子供たちは、また新しい「一人遊びの道具」を手に入れる。そうして「子供どうし外で遊ぶ」以外のもっと熱中する選択肢をどんどん身の回りにおいておき、その一方で「最近の子供は、友達と一緒に外で遊ばなくなった」という。おそらくゲーム機を開発したとき、これが普及することで子供たちにどういう影響があるか想像することはできたはずだ。——こうしたことは他にもいくらだってある。例えば、ケータイにしてもインターネットにしても、それによりどういうメリットとデメリットがあるか、みんな考えたはずだ。そして「自分たちがちょっとだけ便利になるために、世の中をちょっとだけ悪くすることに目をつぶる」という選択を僕らはしてきたんじゃないだろうか。
「世の中は」とか「今の世代は」とか、そういう漠然としたものを示すとき、僕らは無条件に「自分にある一端の責任」を、まるでないものかのようにして考える。「政治が悪い」「今の若者はなっとらん」「最近の子供は甘やかされてる」等々・・。今の若者がなっとらんのは、なっとらん若者が増えるような世の中を我々みんなで作って来たからではないのか。こうした問題を誰もが「他人の問題」としてとらえている限り、世の中は変わらない。「自分も、この世の中を作るのに加担して来たのだ」という意識を誰もが持ち始めない限り。
とりあえず、文部科学省大臣。学力が低下したのは、あんたのせいだ。それがわからんような人間に大臣は務まらんよ。(と、他人の責任を追求して終わる全然自分の問題としてとらえていないワタクシであった)
公開日: 火 - 12月
7, 2004 at 05:37 午後