介護は子がするのが当たり前?


親の介護は子がするのが当たり前なんだろうか。いや、「しないのが当たり前」になって欲しいものだ。

どうも昨日の夜にワインを飲み過ぎたせいか、朝7時頃に目が覚めてしまった(普段は9時過ぎまで寝ているのだ)。で、娘も起きそうにないし、昨日録画してあった「しゃべり場」をまた見ておりました。ヒマだねどうも。そしたら「親の介護」というけっこうヘビーなお話でありました。ゲストの小米朝さんがやたらとくさい喋り方をしていて「あ〜ウゼェ〜」という感じだった。

こういう介護の意見を聞くとき、いろいろと注意をしないといけない点がある。まず、男の「自分が面倒を見る」という言葉の9割は「自分(の妻)が面倒を見る」ということを意味しているんだ、ってことを頭に入れながら聞かないといけない。また、「親に感謝してるから私が面倒を見るんだ」という言葉の7割ぐらいは「親=母親」であって父親のことはすっぽり抜けていることも考えないといけない。更には、立派そうな言葉を口にする人ほど、自分では何も体験していなかったりすることが多いことも考えないといけない。そういうことを頭に入れておかないと、けっこう勘違いしてしまうことがいろいろある。

更に話は脱線するけど、話の中で「親への恩返し」という言葉が何度も登場した。恩返しをしたいから親の介護は自分がやりたい、的な言葉。うーん、そうなんだろうか。僕個人の考えなんだろうけど、僕は「親から受けた恩は親に返すな」という考えだ。人の親になって初めて実感したけど、親が子の面倒を見るのは別に感謝されたいからではない。「見るな」といわれても見てしまう、そういうもんだ。いやがられても嫌われても、親である以上、子の面倒はどうしても見ちゃうんだよね。「見ない」でいることのほうが遥かにつらいんだ。

「でも、『返すな』ってのはおかしい」といわれるかも知れないが、僕は「返すな」とはいっていない。「親に返すな」といってるのだ。では誰に返すのか。それは、自分の子に、である。親から受けた恩は全て自分の子供に返せ。それが正しい恩返しのあり方だと僕は思う。もちろん、だから「親に何一つするな」っていうんでなくてね、「親から子へと受け渡す」のが正しい恩返しでないかなあ、と思ったりするのでした。

閑話休題。

で、親の介護だ。——僕も父母ともにパーキンソンで、母は施設に、父は実家で一人で頑張ってるけど、正直いって「介護してます」なんてとてもいえない状況だ。月に一度ぐらい様子を見に行って、ケアマネージャの人と電話で相談したり嫁さんにCOOPで食料品の配達を頼んだりという程度だ。とても「面倒見てます」なんていえない。でもまあ、しょうがない。親には感謝している、が、すべてを自分一人で負うことは僕には無理だ。

「昔は、親は子が面倒見るのが当たり前だった」ということを引き合いに出す人がいる。けれど、それはどうだろうか。昔は、介護が必要なぐらいの状況になる前にたいていは死んだのだ。そこまで長生きする人は少なかった。それに、面倒を見る子供だってたくさんいた。「家族が面倒見るのが当たり前」というけれど、それは「妻」と呼ばれる奴隷が各家庭に存在したから可能だったことでもあった。そう、昔は女性は結婚したら一切の人格は剥奪され家庭の奴隷となることが強要された。それでも面倒見きれないほどにひどい人間に対しては「座敷牢」というものが用意されたり、「姥捨て山」的な制度が適用されたりした。それが「親は子が面倒見るのが当たり前」という時代の本当の姿だったんじゃないだろうか。僕は、こういう「漠然とした昔はよかった的発想」というものに対し、常に懐疑的に考えてしまう。

既に「血縁」というもので全てを済ませる時代ではなくなっていると思う。一人っ子同士が結婚したとして、最悪、その妻一人に4人の老人の介護が押し付けられる可能性がある。次々に介護が必要になっていったことを考えると、下手をすると30年とか40年とか介護をし続けないといけない、なんてこともないわけではないのだ。4人の親すべての面倒を見終わったときには70歳、後は死ぬだけ、なんていう生き方を「子供だから当たり前」と誰が強要できるだろうか。少なくとも僕はごめんだし、自分の嫁にそんなことをさせるなんて死んでもイヤだし、自分の子にさせるのだってまっぴらだ。自分が苦労して育てた子供の人生を犠牲にすることなんてできるものか。

世の老人の多くは、それほど深刻な状態にならずに元気で老いていく。が、中には本当に回り中の人生を食いつぶすほどにでっかい介護が必要となる人もいる。自分の親がどうなるかは、ある意味、くじを引くようなものだ。たまたまくじ運がよかった人には、しくじった人の本当のところはわからない。誰が介護するにせよ、少なくとも当事者以外の人間が「××せよ、それが当たり前だ」などと強制するような風潮だけはなくさないといけない(註:「当事者」とは、実際に介護の労働を担っている人のこと。介護する人間の兄弟親戚なんかで自分では何一つやってないのに口だけ一丁前に出すような人間のことじゃないよ)。

よく、子育てで「もっと手を抜いていい加減に子育てしよう」といわれることがあるけど、介護もあんまり「まじめに真剣に」でなく、「いい加減に介護しよう」ということをもっと考えられるような時代になって欲しい。「しっかりやるのが当たり前」なんてのは、もうそろそろ勘弁して欲しいのだ。

公開日: 土 - 5月 29, 2004 at 10:21 午前        


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