純粋で迷惑な人たち


・・というのがいる。日本では、純粋であれば何でも許されるのだろうか。

昨日、永井路子さんの「異議あり!日本史」というのを読み返していたのだけどね。そこで幕末の新撰組などに対する評価が載っていた。ちょうど大河ドラマの方も見ていたことだし、ふむふむと思いながら読んでいたのだけど、そこに書かれていた言葉にちょっと考えさせられたのだ。

日本人は、その考えが間違っていても、それが純粋であれば許される。——そういうようなことを書いてあったのだよね。自分の考えが正しかったか、どのような結果を得られたか、そういうことで高い評価が得られても、動機が不純だったりするとそれだけで評価が低くなったりする。考えも間違っていたし結果も得られなかったけれど、純粋であれば高く評価されてしまったりする。確かに、そういうところが日本人にはあるね。

よく「結果より過程が大事だ」というようなことをいう人がいる。たとえいい結果が得られなかったとしても、その過程によっては高く評価すべきだ、というような考え方ね。それ自体は、僕も賛成だ。だが、その「過程」というのがどういうものか?といえば、「一所懸命頑張りました!」みたいなものだったりする。そうじゃないだろ。どういう情報や知識を収集し、そこからどのような判断をし、そしてどういう結論を得て、それを実現するためにどのような方法を考え、どう遂行したか。——過程が大事というのは、そうしたことを客観的に評価するということじゃないか? ところが多くの「過程が大事」という人は、そうしたことにはあまり目を向けず、「どれだけ努力したか」というような精神論で過程というものを評価したりする。

物事を「心」だの「精神」だのといったもので評価するという感覚が僕は苦手だ。そりゃ、恋愛だとかいうことなら話は別だよ、だけど例えば仕事とかスポーツとか何かの具体的な目標に対して、それを精神的なもので評価するというのがよくわからない。根性でがむしゃらに無意味な努力をするより、物事を客観的に分析し判断するほうが遥かに重要だと思うのだが、そう思ってくれる人は意外と少数だ。仕事であれなんであれ、何かの目標が達成できなかったとき、人は「努力が足りない!」ということはあっても、「分析や判断に間違いがあった」ということはあまりない。

・・世の中には新撰組を「純粋な若者たちであった」と評価する人間が確かにいる。だが、純粋ではあったが、将来の展望を持たず、方法を誤り、多くの人間を殺したことは、「でも純粋だったし」でチャラにできる問題だろうか。まぁ、新撰組は既に過去の話だけれど、でも世の中には今でもあちこちに「ミニ新撰組」みたいな集団というのが仰山とある。——うちの近くには、なにやらの訪問販売の会社らしいところがあって、毎日集団で「いらっしゃいませええ!」「ありがとうございますうう!」と大声を張り上げている。みんな一所懸命に、ひたむきに、お年寄りたちを騙して金を儲けているわけだ。これも近所にあるらしい、なんとかいう手かざしの宗教団体もよくビラをポストに撒いていく。彼らもまた純粋に心からわけのわからん教えを信じて活動しているわけだ。そうした「純粋な間違った集団」というのは、日本中至る所にある。

「心が清らかであれば全てが許される」的な価値観を僕はどうにか修正したい。そういうものが通じる世界もそれはあるだろう、だがそれを現実の社会の中に持ち込むのだけは勘弁して欲しい。「信じる」ことよりも「考える」ことを、世の皆さん、どうかもっと高く評価して欲しいのだ。

公開日: 水 - 11月 24, 2004 at 05:27 午後        


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