評論するヒマがあったら何か作れ


・・いや、自分にいってるんだけどね(嘆息)。なんか気がついてみたら自分が作家ではなく評論家になっていることってあるもんだよ。

ここ1〜2週間ぐらいにメールをいただいた中で、「ブログ読んでます」という方がけっこう増えてきた。うーむ。ブログ(Web日記)なんだからテキトーに書き散らしていたんだけど、読む人が増えてくるとあんまりいい加減なことばっかり書くわけにもいかんな、と思い、今まで書いたものを改めて読み直したりしたんだけど・・。そうしたら、ちょっと暗澹たる気分になっていたのでした。

自分ではあんまり思っていなかったんだけど、実は思った以上に「評論家になってるな」ということに改めて気づかされた、ということなのです。なるべく評論家ではなく当事者として考えるように常々意識してはいるんだけど、やっぱりつい、評論家になってしまう。それに気がつくと、けっこうがっくりくるんだよね。

僕の中では、人間っていうのは「作家」タイプと「評論家」タイプに分かれている。作家は、自分で何かを作る人。評論家は、他人の作ったものについてコメントする人。で、僕はやっぱり常に作家でありたいと思っている。んだけど、それが気がつけば評論家になっている。このことが無性に情けない。——あ、もちろん、小説家という意味の「作家」ではありません。ものを作る人全般の意味ですよ念のため。(どーでもいいけど、自分のことを「作家」と呼ぶ小説家、あれ、何とかならない?)評論家ってのも、それを職業としている人のことでなくて、つまり「人間のタイプとして」ってことね。

別に「作家の方が評論家より上」とか「評論家なんてさいてーなやつだ」とかいうことではありませんよ。作家にも5流の人間もいるし、評論家にもすばらしい評論をする人もいる。——ただ、作家の善し悪しというのは、つまり作ったモノの出来がいいか悪いかということであって、「作る」ということに関してはインチキはできないんだな。まぁ、盗作なんてことをいえば確かにインチキする人も皆無ではないんだろうけど、基本的に作家はどんなにさいてーな作家であっても「作る」ということそのものに関しては皆同列なんだ。「ものを作る」という真摯な作業を抜きにした作家というのは基本的に存在し得ないんだ。

が。評論家は、「評論する」という真摯な作業をすっとばした評論家というのが存在し得る。評論するとか批評するというのは、本来は作る側と同じだけの労力がかかるものだ。例えば映画の評論をするのであれば、その映画を作り出すのと同等かそれ以上の時間と労力をかけて映画というものに対し知識を吸収し理解し考えなければいけない。でなければ、作品を評論することなどできない。・・はずなんだ。だけど、そうしたものをすべてすっとばし、なんの知識も経験も見識もないのに評論らしきものを行なうことも、実はできる。評論家は、インチキができるんだ。

世の大半の評論家は、そうした似非評論家なのだと思う。が、悲しいことに僕らは、評論された言葉からそれを見分けることが意外にできない。言葉遣いや文章表現が立派だと、なんとな〜く立派そうな意見に見えてしまったりする。「この人は立派な評論家だ」と錯覚してしまったりする。更に悲しいことに、たいていの場合は評論する本人も実はそのことに気づいていなかったりするのだ。

なぜ、世の中にはかくも多くの評論家がいるのか。それは、評論するという行為が快感だからじゃないだろうか。——評論や批評という行為は、快感だ。他人の作品を評論する、批評するというのは、その作り手を上から俯瞰して眺めるような感覚を味わえる。そしてそれは「自分は彼らより上なのだ」という一種優越感を与えてくれる。自分が偉くなったように思える。それは、確かにある。他人を批評することで、「ま、オレはそんなんじゃないけどね」という優越感を感じることは、誰だって経験あるはずだ。そして、それを聞く(あるいは読む)側は、一見すると立派そうな言葉遣いや文章表現にごまかされ、「この人は立派だ」「この人は頭がいいなー」などと思ってしまったりする。そうした人間の存在が、更に評論する人間の鼻を高くすることに役立ってしまったりする。

そうやって、世の中には、自分と自分の身の回りの人間だけにしか通用しないミニミニ評論家ばかりが増えていく。——だがね、評論する側は、誰かが何かを作らなければ、何もできないんだ。作家は、自分一人で作家たり得る。けれど評論家は、自分一人では何もできない。他の評論すべき対象がないと何もできない存在なんだ。そのことを評論する側はうっかり忘れてしまう。世にモノを生み出そうとする人々がいるからこそ自分が存在していることを忘れてしまう。僕が「自分が評論家になってるな」と感じるのが不快なのは、大抵の場合、こうした似非評論家になってしまっているからだ。

似非評論家と(本物の)評論家の違い。それは「作り手に対する真摯な姿勢」の有無ではないかと思う。もし、作り手が作品にかけた労力以上の力をかけて評論をするのであれば、その人には「どんな作品であれ、物事を作り出すということに対する真摯な尊敬の念」みたいなものが生まれるはずだ。どんなものであれ、全ての作品が生み出されるまでにはどれだけの労力、時間、思い、苦しみ、そうしたものが必要なのか、それを感じ取ることが出来るはずだから。一流の評論家には、それがあると思う。だからこそ、厳しく批評することがあっても批評された作り手も納得できるんだ。だが、評論するということに労力なんてほとんどかけていない似非評論家は、こうした「評論する対象が生み出されたことに対する真摯な姿勢」がない。なぜって、どんなにまずしい作品であれ、それを生み出すということが根本的に理解できていないからだ。

僕らは常日頃、さまざまなものを好き勝手に批評している。だけど、果たして僕らはそれを作るということをどれだけ理解しているのだろう。もちろん、金を払って見に行った映画がさいてーなら、払った金の分だけぼろくそに叫ぶ権利はある。買った本がろくでもなければ「どろぼー、金返せ!」とわめく権利はある。だけど、世の人間の多くは、金を払って映画を見てもいないのに映画を評論し、金を払って本を買って読むことなくその本を批評する。不確かなほんの一握りの伝聞情報だけで「○○は××である」などとえらそーにのたまったりする。そうしたゴミのような評論で世界は満ち満ちている。

ときどき、「自分が評論家になっていないか?」と自分に対して問うことは、僕にとって重要な儀式だ。作品を生み出すことに対する真摯な姿勢もなく安易に批評してはいないか。自分自身が体験したのでなく聞きかじりの伝聞情報だけで批評してはいないか。少なくともそうしたことさえクリアできていない評論であるなら、そんなものは存在するに値しない。そういう無価値な評論を垂れ流す暇があったら、何か作れ。作家たる自分に戻れ。そう叱責する声に耳を傾けることが、僕にはときに必要だ。

公開日: 月 - 4月 26, 2004 at 11:06 午前        


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