処分保留の罪
警察庁長官狙撃事件の被疑者が釈放。・・ねえ、「処分保留」って、有罪なの、無罪なの?
国松警察庁長官狙撃事件の容疑者として逮捕されていたオウム関係者が、結局、起訴できないとして処分保留で釈放されたそうだ。要するに、「裁判になっても有罪にできるほどの証拠が見つからなかった」ということだろう。——さあ、ここで問題です。では、この処分保留で釈放された4人は、無実だったのかどうか?
答え。無実である。「いや、でも絶対にやってるに決まっている」「絶対に怪しい」などと思っている人。法治国家においては、「有罪と判決が出なかった人間は基本的に全て無罪である」ということをよく思い出して欲しい。無罪であるのに逮捕され取り調べを受けた。ならば、これは「無実の罪であった」としかいいようがないではないか。——なのに、「処分保留」とはどういうことなのか。いいか、捜査をした警察関係者よ。お前たちは、「有罪である証拠を見つけられなかった」のだ。そしてそれは、「彼らは無罪だった」ということなのだ。怪しかろうが悔しかろうが、そうなのだ。そのことをあんたたちはわかっているのか? そして、事件を報道した全てのマスメディア関係者よ。あんたたちも、そのことをわかって報道していたのか?
未だに、世の中には「オウムだけは、怪しいと思うだけで逮捕してもかまわない」という感覚が根強い。かつてオウムが起こした事件を思い起こせば、未だにオウムに対して恐怖や不安を持つのはある意味やむを得ないと思う。だが、せめて表向き(?)だけでも、建前だけでも「すべての人間は基本的人権を保障されなければいけない」ということを考えるべきではないのか。——これが、近所のおばちゃんたちの井戸端会議での話題ならしょうがない。が、新聞やテレビといった報道機関でさえ、彼らの人権に対して鈍感であり続けるのはどうしたわけか。
考えてみて欲しい。もし、彼らがオウムでなく、ごく普通のサラリーマンであったとしたらどうだろう。更にいえば、狙撃されたのが警察庁長官でなく、ごく普通の庶民であったならばどうだ? それでも同じことをしただろうか?
狙撃されたのが警察庁長官であったから。容疑者がオウムだったから。だから「とりあえず捕まえてぎゅうぎゅう締め上げれば吐くだろう」といった戦前のような感覚の捜査がまかり通ったのではないのか。そして、狙撃されたのが警察庁長官であったから、容疑者がオウムだったから、そうした一連の経緯を見ても、誰も「おかしい」と声を上げなかったのではないか。「警察庁長官がやられたんだから警察のメンツもあるだろうさ」「オウムなんだからしょうがないよ」そういう感覚をどこかで肯定する自分がいないだろうか。
僕は、ある意味、法治主義者である。人間はすべて法の下に平等である。そのことを、どこかで信じたい気持ちがある。そして、法は弱者を守るためにこそある、と信じたい気持ちがある。——日本にはさまざまな弱者が存在する。外国人、在日朝鮮人、同和出身者、ハンセン病患者。そして、そうした多くの弱者の中でも、おそらくもっとも低い立場に立たされているものの一人が「オウム」であると思う。であるならば、彼らの人権を守るためにこそ法が機能しないでどうするのだ。
オウムは確かにひどい犯罪を犯した。だが、それは「オウムである=犯罪者」であることを意味しない。かつての事件と関係のない人間も多数いるはずだ。——そして、更にいうなら「犯罪者=人権はない」わけではないのだ。犯罪者にも人権はあるのだ。例え罪を犯し有罪となったものであっても、人権は保障されているのだ。
この世に、「人権を侵してもかまわない」という人間はいない。そのことをみんな頭ではわかっているはずなのに忘れている。警察も、メディアも、そして僕ら一般の人間も。人権は、時に弱者に対してこそより強く保証されなければいけない。そして多くの場合、弱者とは、多くの人が「こいつらを守りたくなんてねーよ」と思うような相手だったりする。「こいつらに人権なんて絶対に認めたくない!」と思う相手の人権をこそ、僕らは死守しなければいけないのだ。彼らの人権が安易に踏みにじられ、それを誰も何とも思わない時代がやってきたら——次の弱者は、僕らだ。そのことを忘れないでいよう。
公開日: 木 - 7月 29, 2004 at 03:39 午後