子供たちを犠牲にするな


・・そう叫ぶことは簡単だ。だが、テロリストだってわかっていたはずではないだろうか。わかった上で、なぜ、あえてその道を選んだのだろう。

また、大きなテロがあったね。ロシアで学校の始業式に乱入して生徒と父兄を人質に立てこもっていたテロ集団が特殊部隊とぶつかり、大勢の死者が出た。一説には100人とも200人とも、それ以上ともいわれている。ついこの間には飛行機が2機、テロによって墜落したばかりだ。ロシアのテロ問題は相当に根深い。

犠牲者の多くは子供たちだった。新聞やテレビでは傷つき放心したように立ち尽くしたり泣きわめきながら下着姿で逃げ惑う子供たちの姿を映した。新聞などの論評は「なぜ、罪もない子供たちを犠牲にするのか。多くの人間は、それにより離反していくだろう」と一様にテロリストを非難していた。確かに、子供たちをテロの標的としたことで、テロリストたちは多くの人々の支持を失ったと思う。——だが。そのぐらいのことは、彼らとて最初からわかっていたはずだ。なのに、なぜ、あえて子供たちをテロの標的にしたのか。その部分を考えなければ、問題の本質は見えてこないように思うのだ。

「罪もない子供たちを犠牲にするな」——それは、正しい言葉だ。だが、思うのだ。おそらくテロリストたちに尋ねたならこういうだろう。「全くその通りだ。返す言葉もない。だが、その言葉は、我々の子供たちがあなた方に殺される前に聞きたかった」と。子供を犠牲にするな。その言葉は、常に大国の側から発せられたときのみ我々の耳に届くようにできている。チェチェン共和国から、あるいはアフガニスタンから、イラクから発せられた言葉は、我々には滅多に届かない。

あるいは、こういうだろうか、彼らは。「わかった。では、彼らが大人になるまで待って、我々を殺し始めてから殺せばいいのか?」と。——かなり前、もうどこで耳にしたのかさえ忘れてしまったぐらい昔のことだけど、やはり何かのテロで米国の子供が犠牲になったとき、テロを行なった側(おそらくアラブの人々だったと思う)がこういったのを覚えている。「確かに子供を殺すのは許されないことだ。だが、今は罪もない子供たちも、いずれはアメリカ人になるのだ」と。うろ覚えなので正確ではないかも知れない。けれど、その言葉はいたく印象に残っている。子供に罪はない。だが、その子供たちもいずれは大人になり、アメリカの一市民となる。そして、そうした多くの罪もないアメリカ人によってアメリカは支えられ、アラブの人々は延々と迫害され続けて来た。

米国やロシアの罪もない子供たちは、芋虫に産みつけられた蜂の卵だ。確かに卵である間は何の罪もないだろう。だがやがては卵が孵り、幼虫は芋虫の体を餌として食い尽くすのだ。そいつに殺されることがわかっている芋虫が、自分の体に産みつけられた卵を殺そうとするのは罪なのか。

誤解しないで欲しいのだけど、僕はテロリストを擁護するつもりはないし、彼らの行為を正当化するいかなる言葉も持ち合わせてはいない。だが同時に、ロシアがチェチェン共和国に対して行なった行為や、米国がアフガンやイラクで行なった行為を正当化する言葉だって持ち合わせてはいないのだ。だが常に大国の行動は大国自身によって正当化され、テロリストの行為だけが非難される。どちらも許されざるものであるのに、常に一方だけが非難される。僕は、そうした構図に嫌悪感を感じる。だからこそ、つい、その偏りに修正を試みたくなる。

血まみれの姿で逃げ惑う子供たち。その光景は、ずっと昔に見た。ベトナム戦争で、米国のナパーム弾に焼かれる村から逃げ延びた子供たち。両者の行為に、一体何の違いがあるのか。今回の事件「だけ」をピックアップして、行為者を非難するのは簡単だ。だが、同じことは遥か昔から幾度となく行なわれて来たのだ。その多くは大国自身の手によって。行為そのものを非難して終わりにするのはもうやめよう。なぜ、起こったのか。なぜ、彼らはそんなことをしたのか。彼らが成した行為の、その向こう側にあるものを僕らは考え続けなければならない。

公開日: 土 - 9月 4, 2004 at 07:30 午後        


©