少年法と被害者感情


被害者感情は大切だ。だけど、「かわいそうに見えない被害者」も世の中にはいる。

小学6年生による殺人事件は、いろいろなところに影響を与えつつある。その1つが、「少年法」の問題だ。こうした未成年者の重大事件が起こる度、少年法改正の声が上がる。曰く、もっと年齢を引き下げよ、曰く、もっと罪を重くせよ。事件が起こる度、未成年者の扱いをより厳しくせよという声が高まる。

こうした主張でもっとも大きなウェイトを占めている理由は、「被害者感情」というものだろうと思う。被害者のことをもっと考えよ。殺したのがたまたま未成年者だからというだけで被害者は泣き寝入りしろというのか。そういう声。ある意味、これは前に述べた「感情的な考え」だ。論理的にそれが正しいかどうかという考えから発しているとは思えない。が、感情論であるからすなわち間違いであるとはいえない。感情的な意見も、やはり一つの真実を示していると思うからだ。

というと、「なんだ、こいつは少年法改正に賛成なのか」と思うかも知れない。が、実はそっちに話は向かわない。どっちに向かうのかというと、「この肝心の被害者感情というやつ、実はかなりあやふやなものではないのか?」という話に向かうのだ。

——最近、事件が起こる度に、「被害者の感情」というのが常に話題になっているような気がする。正直、今までの刑法では被害者は確かに軽視されていたように思う。だから、ここ十年ほどの間に、事件や事故の被害者たちがさまざまな活動を通して「被害者の立場」というものをもっと知って欲しい、もっと重視して欲しいと訴えてきたことはみんな知っているだろう。それは確かに僕もそう思う。加害者だけでなく、被害者の救済というものももっと考えるべきである。

が。それがそのまま世間でいう「被害者感情」というのに結びつくか?というとそうではないような気がするのだ。多くの人が「被害者感情」というのを口にする時、それは明らかに「かわいそう、同情できるから」なのであって、被害者の法的社会的立場といったことなどは考えていないのではないか。悲しいことだが、大半の人間は、「かわいそうだから」というだけの理由でしか被害者のことを考えないのだ。

「そりゃ、かわいそうにきまってるじゃないか。そうした人に同情したり、そうした人の力になろうと思ってどこが悪い」——それはそうなのだ。が、では「かわいそうに見えない被害者」はどうなるのか? 最近、そうした例があった。それは、イラクで暴徒たち(テロリストとはいいたくない)に誘拐された日本人たちの家族である。

彼らは、明らかに被害者である。だが、テレビに映された物言いが「あんまりかわいそうに感じられない」「どっちかというと、むっとした」ために、彼らの「被害者感情」は誰も考慮しなくなってしまった。そのために「自己責任」だの「費用負担」だのといった突き上げを食らうことになってしまった。もし、彼らが最初から「いかにも哀れを誘うような態度」であったならば、おそらく人々に責められることなどなかっただろう。常に低姿勢で、政府の批判など一切口にせず、ひたすら「世間様にご迷惑をおかけして申し訳ない」という態度を示していたら、世間の反応は全く違っていただろう。この事件に限らず、世間一般の「被害者感情」というやつは、実際その被害者がどれだけの被害を受けたかというのとは無関係に、被害者側の「見た目」で形成されてしまうことがしばしばある。多くの人は、被害者が「かわいそうか」ではなく、「かわいそう『に見える』かどうか」で考えるのだ。

法的なものはいざしらず、世間一般のいう「被害者感情」というのは、実はその程度のものではないか。そして、その程度のものをよりどころにして「少年法を改正しろ」「子供だからといって特別扱いするな」といった声を上げているのが大半なのではないか。はたして、そんなもので少年法というものを考えてしまってよいのだろうか。

誤解しないで欲しいのだけど、犯罪被害者の方たちが実際に活動し訴えている「被害者感情」を否定するつもりは全くない。僕がいっているのは、あくまで「世間一般の(事件とは無関係な)人々が勝手に考えているあやふやな被害者感情」のことだ。

少年法改正といった声を耳にするとき、そこに「少年法の精神」という言葉を聞くことがほとんどない。そのことが僕は悲しい。被害者感情うんぬんの前に、何よりもまず最初に「そもそも少年法の精神とはいかなるものか」を考えずしてどうする。憲法改正などといえば、いつも「憲法の精神」といった言葉が登場するのに、少年法ではそうした言葉が聞かれないのはなぜなんだ。

少年法の問題は、なによりまず「少年法の精神に基づいて現行法を考えたとき、どのような問題があるか」という視点から考えるべきである。——で、お前の意見はどうなんだ、って? 残念ながら、前にいったように、僕は確固とした意見がまだ固まっていない。従って、現時点ではノーコメントだ。ただ、少なくとも「世間のいう被害者感情というあやふやなもの」だけで判断するようなことだけはないようにあって欲しい。それが現時点で僕の述べることのできる唯一の意見であります。


※ところで。「確かお前は、前に、世間一般が漠然と思っているものというのはだいたい正しい、とかいってなかったか?」と思った人へ。おっしゃる通り、確かに世間一般の感情や考えというのは、だいたいにおいて正しいと思っている。が、あくまで「だいていにおいて」だ。決して「常に」ではない。——それに、僕は世間一般の人々が「少年法改正に賛成」だとも思っていない。世論というのは、時に「声の大きな一部の人間」によって意識的に作られることがある。少年法改正の世間の声というのにも、僕はこうした「声のでかい一握りの存在」を感じてしまうのだ。

公開日: 金 - 6月 4, 2004 at 07:31 午後        


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