敗戦記念日


言い換えるのはよそうよ、「終戦」と。

お昼の頃だったと思う。「今日は、敗戦記念日か・・」と何気なくつぶやいたら、嫁が「うーん、パパらしい言い方」といっていた。「いつ頃から、そんないいかたするようになったの?」という。何のことかと思ったら、要するに「世間では普通、『終戦』記念日という」ということなのであった。そっか、そういやそうだな。

多分、戦争が終わった頃の人々の気持ちというのは「敗戦」ではなく「終戦」だったのだろう。すなわち、「負けた」というより、「ああ、ようやく終わってくれた」という気持ちの方が圧倒的に強かったのではないか。それが「終戦記念日」という言い方に現れているような気がする。大半の人々にとって、第2次大戦はもはや勝ったか負けたかなんてどうでもいい、とにかく「終わってさえくれればいい」という状況だったんじゃないか。

だけど、「敗戦」を「終戦」と言い換えることで、どこかしら本来の表現を微妙に軌道修正しようとする意図を感じてしまうのは僕だけなんだろうか。日本人は、時々こういう「言葉を言い換えることで、本来イヤなものをうまいこと感じないで済むようにしてしまう」ことをやる。「そんな、わざわざ古傷を突っつくようなことをしなくったっていいじゃないか」と、婉曲な表現に逃げることをよくやる。

まあ、確かに個人的な出来事などについてはそういうことはあるだろう。表現をおとなしめにすることで、イヤな思いをしないで済むようにという配慮。だけど、あえてそうしたことをしないでおくべきこと、わざわざカサブタをひっぺがすようなことをするべきということも世の中にはある。「敗戦」を「終戦」と言い換えないこと、それは僕の中ではいつの頃からか「あえてそういうべきこと」のような感じでとらえるようになっていたのだろう。

終戦という言葉に僕は、なんとなく「自分たちも被害者だった」というニュアンスを感じるのだ。「我々日本人だって、いわば被害者だったんですよね」という感じを。けれど、例えば韓国では8月15日は、民族解放の記念日となっている。「終戦」といっていると、なんというか韓国の人々とも一緒になって「いやー、ほんとに終わってよかったよね、あの戦争」とか言い出しそうな雰囲気がしてしまう。「敗戦」なのだ。日本は戦争に負けて、そして韓国などは解放されたのだ。そういう見方が、「終戦」という言葉からはすっぽり抜け落ちてしまってるような気がする。

この日。多くの場所で多くの人が、亡くなったものたちへの祈りを捧げている。——だが、思うのだ。祈りを捧げる多くの人々の胸の中にある「亡くなったものたち」には、「日本人に殺された人間たち」は果たして含まれているだろうか、と。人々の胸の内にあるのは、ただ、「戦争で亡くなった日本人たち」だけではないのだろうか。敗戦を終戦といい、日本人も被害者だったのだと思う人々の目には、「被害者である日本人の犠牲者」しか映っていないような気がするのだ。「加害者たる日本人によって犠牲になった人々」のために祈っているようにはどうも思えないのだ。

いや、そんなことはない。考え過ぎだ。そういう人たちが圧倒的であることはわかっている。けれど、どうも「終戦」を「敗戦」と言い換える心に、僕はそうした疑いを抱いてしまうのだ。——僕らは、日本人は、被害者ではない。僕らが戦争を起こし、そして負けたのだ。そう改めて自覚するためにこの日を「敗戦記念日」と呼ぶことは、そう悪いことではあるまい。

公開日: 日 - 8月 15, 2004 at 07:31 午後        


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