人気のある人間にこそ注意すべき・・?


まもなく選挙だ。人気者の言葉には、よりいっそう慎重にいこう、ね?

今週末は、選挙だ。はっきりいって、今回の選挙はあまり気乗りがしない。特に千葉県は、立候補者が3名になってしまい、社民党など投票したくともできなくなってしまった。どうも日本中何となく低調だ。だけど、ともかく国民の義務として投票にはいかないとな。特に理由もないのに投票にいかないということは、「次の選挙までの間、私は国家にどんな目にあわされても一切文句はいいません。全部、国の言いなりになります」と宣言するようなものだと僕は思っている。

選挙の度に思うのは、「選ぶ政治家がいない」ということだろう。確かに、ぱっとした人間はあんまりいないよね。じゃあ、どういう人が「いいな!」と思えるんだろうか。——正直いって、僕はここ十年ぐらいの選挙による政治家の選ばれ方から、多くの人の「人の選び方」に疑問を感じている。多くの人は、何か錯覚したりだまされたりして人を簡単に選んでしまっていないか、という感じがしてならない。

だいぶ前から、政治家の資質として「言葉」を重視するようになって来たように思う。「物事をはっきりと言う」「いい悪い、白黒をはっきりつける」それがいい政治家だ、と思われるようになっているような気がする。僕は、これが怖いのだ。つまり「物事を二者選択のような単純なもので表す人に人々の人気が集中する」ということが、だ。

物事を単純化するということは、問題をわかりやすくすると同時に、「それ以外の細かなニュアンスをばっさり切り捨てる」ことにつながる。僕は、今までに何度かこういうことを書いた。「物事をわかりやすくする」ということの危険性について、を。「だいたいこういうことなんだ」という単純化された説明は、危険である。それにより、本来ならばもっと複雑でわかりにくいはずの事象を「わかった」つもりにされてしまうからだ。だが、わかったのは、単純化した人が思い描く問題であって、本来の問題ではない。そして、そこには当然ながら単純化し説明した人が「こうあってほしい」と思われる軌道修正が施されている。そうした微妙に都合のいい方向に修正された単純な話をもって「なるほどそうなんだ」と納得したり、「この人の説明はわかりやすい」と思い込むことがないか。それは、危険である。

世の中には、「単純化してはならないこと」がある。複雑でわかりにくいことを、わかりにくいまま考えなければならないことがある、と思う。もちろん、それは理解するには時間がかかる。また複雑であるほど、「○か×か」といった単純な結論には至らなくなる。そして、それが正しいことなのだと思う。わかりにくいことを「わかりにくいです」といえる人間、複雑な問題を「○でも×でもないんだ」といえる人間、それこそがその問題に関する限り、正しく理解し判断しようと試みている人間ではないのか。それを「この問題は×だ!」「これは○だ!」とすっぱり一刀両断する人間にばかり人気が集まってしまうのは正しいことなのか。

更に。こうした「一刀両断」の爽快さに気を取られ、その両断した判断が本当に正しいか否かを僕らは考えようとしなくなってはいないか。「民主主義はどんなことがあっても守らないといけない、だからイラクに派兵する!」と断言したその言葉の爽快さと、その判断の正しさとは本来、何の関係もないはずだ。だがそこに「これだけ明快に断言しているんだからきっといいやつだ、だからきっと正しいこといってるはずだ」といった思いが混じってはいないか。

わからない問題を「わかりません」と答えることのできる人間を僕は信じたい。「私にはできません」といえる人間を正しい人間と思いたい。何もかも「○か×か」で答え、何でも「できます」と断言する人間に、ものごとの本当のことはわからないし、何かができるとは思えないのだ。

わからないことを「わからない」といえる政治家。そういう人がいたら、ぜひとも投票したいのだけどなぁ。

公開日: 月 - 7月 5, 2004 at 07:31 午後        


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