中古車を探す
なんだって日本の自動車ってのは、どれもこれもこんなにダサイのか・・。
ヒマを見てぼちぼちと中古車を検索している。東京では車なんぞまっっっっったく必要なかったのだけど、千葉の片田舎に引っ越して以来、さすがに車の必要性を感じている(主に、嫁のほうが・・)。今はまだチャリンコでどこへいくにも済ませているけど、子供が幼稚園ぐらいになるとそうもいかなくなるだろう。それにこっちも中年から老年へと突き進んでいけば、いつ足腰がダメになるやも知れない。というわけで、四十の手習いに教習所通いをしてるところだ。あと数時間ほどで一応おしまいの予定で、秋ぐらいにはなんとか免許もとれそうな感じなので、ぼちぼち「どんな車がいいかな」と眺めているわけ。はっきりいって、この歳まで、内燃機関の乗り物にはまっっっったく興味がなかった。男というのはたいていある程度の年齢になれば一度はクルマにはまるらしいが、そういう本能がすっぽり抜け落ちていたらしい。興味を持つのは自転車だのカヌーだの「人力で動く乗り物」ばかりであった。なので、車の車種なんてのも皆目わからない。やむを得ず片っ端から手頃なものを眺めて回っているところなのだ。ま、どーせ最初のうちはあちこちぶつけるだろうし、新車は高いし、手頃な中古車あたりでいいか?とか思っている。それにしても、今まで興味がなかったのであんまり気づかなかったのだけど、最近の車というのは、なんだってこうもみんな似たり寄ったりなのだ? どの写真を見比べても、「あれ? これってさっきのと同じでないの?」みたいなのばっかりでちっとも頭に入らない。しかも、驚いたことにどれもこれもべらぼうに高い。——結局、いきつくところは、外車になってしまうのだった。僕の頭の中では「外車=高い」という感じだったのだけど、中古車の世界では逆のようで、外車の古いやつの方がはるかに安い。おかしなものだ。あんまり安いのはちょっと心配なのでそれなりのグレードのものを探してはいるのだけど、それでも国産の中古よかなぜかBMWなんぞのほうが安かったりする。——あれこれ探して、結局、「これなら買う気になれる」というのは、国産車3種類、外車3種類といった感じに絞られてきた。今のところ及第点に達しているのは、以下の通り。スバル サンバートライ ワーゲンバス仕様ニッサン パオミツオカ ビュートシトロエン 2CV チャールストンフィアット500 チンクチェントフォルクスワーゲン ビートル見ればわかるように、「完全に見た目重視」であります(笑)。現在のところ、一番「欲しい!」のはチャールストンだ。ただし、これはエアコンさえついてないし、左ハンドルで摩訶不思議な操作のマニュアルギアチェンジ、しかもチョークで始動する(笑)という、「こんなもん、若葉マークの人間が運転していいのか?」という代物なので、度胸の点でかなり疑問符がつく。フィアット500は、なにしろ一番新しいので1970年頃(笑)なので、整備やメンテの点で不安がある。ビートルは一番条件的にいいんだけど、比較的新しいものだとそれなりに高いのが難点かな。サンバートライはワーゲンバスに限って合格。これを自家用車に使うのは、なかなかに面白いだろう。トータルで見て一番妥当なところだとビュートやパオあたりなんだけど、ちょっと普通すぎてつまらない感じもする。それにしても、なんだってこんなレトロな車ばっかりほしがるのか?と思うかも知れない。が、こっちだって言い分がある。最近の車は、なんだってみんなああも気持ちの悪い形をしているのだ? なんなんだ、あのナウマン象の歯の化石みたいな形は。それに、なんだってどいつもこいつも目つきが悪いのだ。しかも、なんだってあんなにわけのわからん電子機器が山盛りくっついてるのだ。車ってのは、要するにちゃんと走りゃいいんだ。「走るだけ」の車はないのか?チャールストンのどこがいいって、「走るための必要最小限の形」である点だ。そして、あのデザイン。眺めていて、ほれぼれするね。チンクチェントも、別な意味でかわいらしくてなかなかだし、ビートルのデザインはもう何も言うことがないほど完璧。——ま、現実的な面からいえば、せめてエアコンぐらい欲しいのは確かだ。だけど、何でもついてるダサイ車より、素晴らしくシンプルで不便な車の方が、我慢のしがいはあるだろう。機能というのは、大事だ。常に新しい技術、新しい機能を追求するのはメーカーの宿命だろうし、そうしたものをほしがる人が多いのも事実だろう。だが、そうした「十分条件ではあっても必要条件ではない」もろもろの機能をすべて考慮の外において、純粋に「車として『すてき!』と思える車」というものを一つぐらいは作ってもいいと思うのだ。モノというのは、いついかなるときも「高機能、高性能なもの=よいもの」なのだろうか。そうではないだろう?チャールストンのオーナーのホームページをいくつか見ていたら、そこに2CVの魅力としてこう書かれていた。「自転車のような乗り心地」と。——2CVは、農民のための車として作られた。「大人2人と、ジャガイモ50kgを乗せて50キロで走れること」「バスケットいっぱいに卵を積んで田舎道を走っても卵が割れないこと」「シルクハットをかぶったまま乗れること」——農民が、日常生活から冠婚葬祭までこれ1台ですべてまかなえる車として、2CVは開発された。販売の際には、購入できる優先順位が「1.農民、2.医者、3.仕事で長距離移動が必要な人」と設定され、農民は最優先で購入することができた。この車は、「いかにすれば貧しい農村の暮らしを我々車メーカーの力で豊かにできるか」を考えた末に生まれたものだったのだ。国民車というものがある。2CVもそうだし、ドイツのビートルもそうだろう。日本においても、スバル360などがあった。今の日本には、国民車がない。大衆車と称するものは、みんな高級車ばかりだ。あらゆる便利な機能が満載され、車であるために必要な部分の倍の値段をかけて売られる車。「ただ走るだけの機械」からすればべらぼうに高い車を人々は買い求め、そして住宅ローンの上に更に自動車ローンを上乗せして、借金を返すためだけにひたすら働く。——楽しくない。そんな貧しい暮らしは、僕はイヤだ。かつての国民車には、車のメーカーが「自分たちの作った車によって人々の生活を豊かにする」という誇りと自負があったような気がする。カローラを買って、僕の暮らしは豊かになるだろうか? 便利にはなるだろう。だが、それだけだ。「豊かさ」とは、便利さや快適さとは別のものなのだ。インスタントコーヒーを入れる生活と、本物のコーヒーを時間をかけていれる生活。ペットボトルのお茶を飲む生活と、急須でじっくりお茶を入れて飲む生活。どちらが「便利」で、どちらが「豊か」だろうか。エアコン完備で広々した室内でパワステやオートマで快適に運転する車と、天井を跳ね上げ風を感じながら走る車のどちらが「豊かさ」をもたらすだろう。大枚を払って買う車なのだ。買って暮らしが貧しくなるんじゃ意味がない。豊かになる車を探そう。多少不便でも、我が家の暮らしが少しだけ豊かになる車を、ね。
公開日: 月 - 8月 2, 2004 at 04:36 午後