寓話と教訓


寓話から教訓を得ようとしちゃいけない。そもそも、教訓を元に寓話は書かれるのだ。

お盆休みってわけじゃないんだけど、どうも仕事をやる気がなかなか湧いてこない。ので、つまらん寓話もどきを書いたりしてみた。カテゴリから見ればわかるように、これは「非・寓話」であります。どうも寓話っていうのは教訓めいていたりして、人によっては寓話と見ると、そこから何が何でも教訓を読み取らずにはおかないぞ、といった感じでとらえていたりする。で、「これは、なんの教訓もありません。こんなものから教訓なんぞ読み取っちゃダメよ」という意味で「非・寓話」としたわけ。

寓話から人生の教訓を取り出して偉そうに訓戒をたれる、というのがキライである。人間というのは不思議なもので、「寓話から得られる教訓は常に正しいのだ」と信じてしまったりする。——寓話というのは、いってみれば「書き手が読者に伝えたい教訓を物語の形にして表現したもの」だ。だから、そもそも「そういう教訓が得られるように」作ってあるお話なのだ。だから、得られる教訓というのは、「作者が、そういう教訓が得られるように物語に埋め込んでおいた」だけのものでしかない。寓話の作者がてきとーに考えた教訓を、なんだって無条件に「正しい」と信じられるのだ?

昔から、有名な寓話には、そのパロディのお話がたくさん作られて来た。例えば「アリとキリギリス」では、夏の間遊んでいたキリギリスが、冬になって、夏中一所懸命に働いていた蟻の家を尋ねてみると、蟻は過労でみんな死んでいた、みたいな話が山ほどある。それは、単に「有名なお話を茶化す」というだけのこともあるだろうけど、中には「その説教じみた教訓に対する嫌悪感」から作られたものも多い気がする。

寓話のように、あらかじめ作者によって予定された通りに人生が運ばれるなら、そりゃあ教訓は生きてくるだろう。だが人生は、寓話なんぞより遥かに複雑なのだ。同じ教訓が、ある場合では通用するが別の場合ではしなかったり、同じ状況が見方によっては全く正反対の教訓で表現できてしまったりする。多くの教訓をたれる人々は、そうした状況のさなかには口を開かず、その結果が出たところでおもむろにいうのだ。「ほら、教訓の通りになっただろう!」と。そして、既に終わった状況がいかに自分の教訓通りなのかを分析してみせるのだ。

どうもここ十年ぐらいからかな、本屋で人生訓本というか自己啓発本というか、そういう「教訓じみた話の本」がベストセラーになることが多くなって来た。多くの人が、そんなものを読んで本気で信じているのだろうか。そんなバカな、と思うのは僕ぐらいなのか。

だったら一丁、オレも——じゃなくて、だったら「寓話と教訓がいかにバカバカしいものか」を感じてもらえるようなバカな寓話を書いてみようか、と思ったのでした。まぁ、絶対にいないとは思うけど、「まさか」ってこともあるからいっておく。「くれぐれも信じないように」ね。こんなバカな寓話と教訓。

公開日: 木 - 8月 12, 2004 at 05:22 午後        


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