「新選組」も佳境?
山南ちゃんが切腹。見て涙した人間はどのぐらいいるんだろう。
日曜日、「新選組」があった。今回、山南敬助の切腹という、けっこうな山場のお話でありました。——で。見たのだけど、うーん、これがなんとも・・。いや、ドラマとしてはまとまっていたんだと思うよ。おそらく、見て感動し涙した人もたくさんいることだろう。僕は御免だったけど。なんというのか、「別に三谷さんが書く必要のないお話」にどんどんなっていくような気がする。もっとぶっこわした話を期待したんだけど、これからどんどん「いかにも史実に忠実」な方向に進んでしまうんだろうか。
なんというかなぁ。——新撰組のためにあえて死を選ぶ、とかね。彼らが歴史を動かしたのだ、とかね。武士らしいいさぎよさ、だとかね。男とはかくあるべきだ、とかね。いかにもそういう感想とか感慨がわいてきそうな感じのお話だったのだよね。そして、その事自体が猛烈にイヤ〜な感じだったのですね。なにがどうイヤなのかというと、え〜以下に整理しますけど。
・組織のために個を犠牲にすることを尊いと思うような感覚、これがイヤ。そもそも「誰それの犠牲の上に成し遂げた」というようなことに感動するという感覚自体が理解できない。
・歴史上の偉人などで「○○が歴史を作った」とか「××が歴史を動かした」という考え方に強い反感を持ってしまう。例えば「山本五十六が真珠湾を攻撃した」みたいな考え方が、ね。バカじゃねーか、真珠湾を攻撃をしたのは全国から徴兵され軍隊に放り込まれた名もない若者たちであって断じて山本五十六じゃねえぞ、とか反射的に思ってしまうんだよね。
・武士がいさぎよいとか、切腹が立派だとか、そういう感覚がダメ。よく「武士道がどうたらこうたら」とか偉そうにいう人に限って、自分のことに関してはとてもいさぎよくない人に見えるしね。
とてもイヤなのは、見ていると、とてもそういう感覚的な部分でイヤだと思う僕でさえ、なんとなく「じ〜ん」と来てしまったりすること。「なんか、まるで自分が感動しちゃったみたいじゃないか」とか思ってしまうのだよね。じわ〜っとくるのはテクニックであって、別に感動なくても共感しなくても技術的に泣かせる話を作り出すことはできるのだけど、でもほとんどの人というのは「泣けてくる=感動した=いい話だ」と自動的に思い込んでしまうんだよね。昔っから、「難病もの」っていうのがあるじゃない。別にたいした話でなくても、必ずポイントポイントで涙できるってやつ。そういう「ツボ」を押さえてさえいれば、泣かせる話は割と簡単に作れる。だからといって、それが「いい話」だったか、またその話に共感できるかどうかは別だ。
僕が怖いのは、「泣けた」という多くの人が、深く考えることもなくその内容に共感し、それが正しいと思うようになる、ということ。人間は、案外と簡単に情報操作されてしまう。その情報を提供する側に都合のいい方向に簡単に誘導されてしまう。そして多くの場合、誘導された人々は、自分が誘導されたとは決して思わず、「自分からその道を選んだんだ」と思ってしまう。そういうこと、ないだろうか? 僕は、ある。自分が簡単にそんなふうになりがちだとわかっているから、尚更思う。
脚本の三谷さんがそういうことを考えてたとは思わない。けれど、大河ドラマが与える影響ってのはでっかいんだよね、作り手が考えている以上に。——これ以上、そっちの路線に進んで欲しくないな、と思ったりするのでした。もっと旧来の新撰組のイメージをひっくり返すようなバカバカしい楽しさを・・大河ドラマでやれってのは、やっぱ無理ですかね・・?
公開日: 月 - 8月 23, 2004 at 10:22 午後