民主的戦争なんて存在するのか?


米兵の虐待が問題になっている。けれど、「一部の個人の問題」にすり替えようとしてない?

今や、イラクといえば「虐待」であります。米兵がイラク人を虐待していたというのが表沙汰になって、イラク問題はそれ一色となった感があるね。米国に続けとばかり英国でも虐待問題が飛び火しているようだ。米英の首脳部は、この問題を一部の人間の暴発として、なんとかしてトカゲの尻尾を切り落とそうと必死になってるね。

首脳部は虐待を知っていたのか?というような疑問が一部のメディアで投げかけられている。でも、その疑問は何か意味があるんだろうか。知っていようといなくとも、「そういうことが起こるに決まってる」ことを承知の上で戦争を始めたんじゃないか。今更、「知ってた」「知らなかった」に何か意味があるとは思えない。戦争をするというのは、そういうことじゃないか。

イラク戦争の始まる前から、どうにも不思議でならなかった疑問。それは、米国の人間が、まるで世の中に「民主的な戦争」なんてものがあるかのように考えているんじゃないか、ということだった。犠牲者も出さず、問題も起こさず、人道的で悪者だけをやっつけ他の人間はすべて救われる、そういう戦争。「んなもん、あるわけねーだろ」と誰も突っ込まなかったのか?

米国では、戦争終結宣言があった後も少しずつ米兵の犠牲者が増えているのが反戦の圧力になりつつあるという。戦争なんだ、死人は出るに決まってるじゃないか。まさか、「イラク人だけが死に、米国人は死なない」とでも思っていたのか。一方的に米国人がイラク人を殺すだけで、米国は一人も被害が出ないで終わると考えていたのか。そんな戦争があるものか。もしあったとしたら、それは戦争じゃない。「虐殺」だ。

国連機関は開戦当時から捕虜の虐待が起こりえることを勧告していたと言う。米国では、帰国した兵士のアルコールや薬物依存、自殺の問題が表面化しつつある。イラクでは、志気を高め精神的なメンテナンスと称して抗鬱剤を兵士にばらまいていたという。抗鬱剤といえば聞こえはいいが、要するに覚醒剤だ。第2次大戦時、日本で兵士の志気を高めるためにヒロポンが使われ、戦後、薬物中毒患者が大量に出た。それと何ら変わるところがない。そのような半ば正常さを失った状況下での出来事に対し「虐待は個人に責任がある」などと平然といってのける感覚。「ひょっとして、こいつらも抗鬱剤を打ってるのか?」と思ってしまうのは僕だけか。

戦場は非日常的な場所だ。そうよくいわれる。それがために、まるで日常の僕らの社会とは隔離された別の世界の出来事であるかのように思われる。けれど、考えるがいい。そこで殺し合っている兵士たちは、ほんの数ヶ月前までは僕らの社会に暮らしていた人間たちだったのだ。そして、数ヶ月後には(死ななければ)再び僕らの社会に戻ってきて、以前と同じように平和に暮らしていく人間たちなのだ。「戦場は特別な場所だ」といわれ、いきなり「だから安心して人を殺せ」といわれて、「はい、今は特別な状況ですからね」と納得して人を殺せるか? まともな神経なら、できることじゃないだろう。もしできたとしたら、それは既にまともな神経じゃなくなってるのだろう。

そういう状況に人間を放り込む。それが「戦争をする」ということだ。どっかの誰かのように「戦闘地域でなければ危険はない」だのといった机上の空論で行なうものじゃない。「それに関わった人間はすべて人生をぶっこわされる」ということを承知の上で平和に暮らす人間たちを万単位でその中に放り込む、そういうことだ。「戦争を支持する」とは、そうやって、ひょっとしたら自分や自分にとって大切な人々も含めた人生を破壊することを肯定する、ということだ。

どこまで考えて、この戦争を肯定したのだろう。各国の指導者は。そしてその国の国民は。「戦争にもルールがある」といわれる。あるもんか、ルールなんて。そんなものは、後からお偉いさん方が責任逃れをするための口実だ。「戦争にだってルールはある。こんな酷いことは許されない。関係者を厳重に処罰する」といいわけするための。戦争は会議室で起きているんじゃない。いざ戦いとなり、相手を殺すか自分が殺されるかというそのときに、一体どんなルールが適用できるというのか。ルール違反だろうが人権蹂躙だろうが軍法会議ものだろうが生き延びるためにはあらゆる手を尽くす他にないだろうが。それが戦争だろうが。

そろそろ、きちんと考えようじゃないか。「戦争」というものの本質を。まるで世の中に「よい戦争」「正しい戦争」なんてものがあるかのように錯覚している今の歪んだ認識を元に戻そう。虐待の発覚は、それにはよいきっかけだ。「正当な戦争」なんてものの中身もしょせんはこんなもんなのだ、ということを、目を見開いてよっく見ておこう。みんなの目でそれを見、記憶しておくこと。今、この時点では無力だとしても、いつの日か起こりえるだろう次の戦争のときには、少しはそれが何かの力となるかも知れないのだ。

公開日: 月 - 5月 10, 2004 at 04:10 午後        


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