死んだ後のことなんて考えるなよ


窪塚君、叩かれてます、女性週刊誌で(笑)。しかし、人が死ぬことに他人がなんだってえらそーに注文付けるんだ?

新聞には、よく週刊誌の広告が出ている。で、ぼちぼち出てくるかな〜と思っていたら、出てきましたね、窪塚君。某女性週刊誌の見出しなんかではかなりすごそうな記事を想像させる見出しが躍っております。「仕事激減で父親に相談直後の飛び降り」とかなんとかね。やーねもう(←って結局読んでるのかよ)。

窪塚君の奇行をあれこれ取りあげてるのはよくあるんだけど、女性週刊誌の性格なのかなあ、「生まれたばかりの子供をおいて自分勝手に自殺(←って決まってるわけでもないんだけどね)するのは許せない!」といった感じの意見が割とある気がした。そういうのを見ると、ああ、日本らしいなあとか感じてしまうのでした。日本らしいというのは、「人が死ぬのに他人が注文を付けられると思っているところ」であります。

前にも何かで書いた気がするけど、なんだって日本では「自分が死ぬ」のに他人がとにかくあれこれ注文付けるのだろう。また、注文付けるのが常識のようになってるんだろう。自分が死ぬときぐらい、好きに死なせて欲しいと思うのだ。自殺だろうが、事故死だろうが、病死だろうが、遭難して死のうが、それぐらいは本人の好きにさせればいいじゃないか。が、それが日本では許されない。例えば末期癌であと少しの命とわかったら、苦しまないうちに死にたい、と思ってもそれが許されない。人生一度きりなんだから無謀といえるような冒険をやって死んでもいいや、というのも許されない。ジャーナリストの使命として渡航禁止の戦場に潜入して殺されても「自己責任だ」と糾弾される。なんなんだこれは。

非常に無責任であることを承知の上でいうなら、死ぬときぐらい好きにさせてもらおう、みんな。更に、無責任であることを承知の上でいうなら、死ぬときぐらい、死んだ後のことなんて放っておこう。「後の迷惑を考えろ」なんてことを、これから死ぬ人間にいって何がどうなるっていうんだ? だって、死ぬんだろ? 後のことなんて知ったこっちゃないに決まってるだろうが。だって、そのときには死んでるんだから。なんだって、死んだ後のことまで死ぬ本人が考えないといけないんだ? そんなのは、まだ生きてる人間が考えればいいことじゃないか。

「死んだ後のことを考えろ」——この言葉は、死ぬ本人のことを考えているようでいて考えていない。そしてまた、残された人間のことを考えているようで考えていない。そう思う。「幼い子供を残して死ぬなんて無責任だ」とよくいうよね。だけど、これは幼い子供を持っている父親として断言するけど、子供なんていうのは、親がいようがいまいがちゃんと育つのだ。いるよりいないほうが苦労するだろうしつらいことも多いだろう、だがちゃんと育つのだ。親がいないからのたれ死ぬなんてことは日本ではないのだ。

残された子供が不憫だ——そういって、子供を道連れにする人間のいかに多いことか。無理心中した人間を「かわいそうに」と同情し、子供を残して自殺した人間を「無責任な」という、この奇妙さ。まるで「一人で死ぬより、子供を連れて無理心中しろ」といってるように聞こえやしないか? 死んだ後、子供がどうなるかなんて、これから死ぬあんたが考えるなよ。子供のことなんて放っておいて一人で死ねよ。そう思うのは間違いなのか?

子供も奥さんも放っておいて一人で自殺(←だからまだ決まってないってば)を試みた窪塚君を、僕はちょっとだけ偉いと思う。もちろん、生きて頑張ればそのほうがいいけど、「死ぬ」と決めたんなら、後は自分一人でてきとーに死ねばいい。それができるだけ窪塚君は立派だ。(←だから自殺とは決まってないってば)

みんなも、死ぬときぐらいは、後のことなど考えるのはよそう。それから「死んだ後のことを考えてみろ」なんていう人に耳を貸すのはやめよう。これは断言してもいいけど、こういうことを偉そうにいう人ほど、実際そのときになったら後の面倒など全くみてくれないのだ。

公開日: 木 - 6月 10, 2004 at 04:13 午後        


©