正しい人は傲慢である


・・ということをふと思うのでした。そういうことない?

しゃべり場の番外編で「平和について」の回のダイジェストがちらっと出ていてふと思ったんだけどね。こういう投稿があったんだよ。——広島の人に「なぜ関東の人は、原爆ドームで記念写真なんて撮れるんですか」といわれた。考えてみれば、あのドームの下でピースしたりして観光気分で写真を撮ったりしていたけど、広島の人にとってはドームはもっと特別な意味があったのだということに気がついた。・・みたいなね。

それを見ていて、「観光に来て記念写真とって何がいけない?!」と即座に突っ込んだのはうちの夫婦だけだったろうか。——広島の人々のでっかい非難を覚悟でいえば、原爆ドームは観光地である。観光地で記念撮影して楽しんで、何がいけないのだ? 広島の人々が、原爆に今も深い思いを抱いていることはわかっている。だが、そんな広島の人も、夏休みにハワイに行けば、「リメンバーパールハーバー」のことなど忘れて楽しんでくるだろう。ヨン様を追っかけて韓国に行けば、「ここで日本陸軍は韓国の人々に何をしたのか」など考えずに冬ソナのロケ地巡りなどをして楽しんでくるだろう。自分にとって思い入れ深いものであっても、他人からすれば全く別のものにしか見えないものだ。

これが、例えば「事故で亡くなった身内」とかいった個人的な思いであれば「まぁ、あなたにとっては大切でも、他の人にはそれは通じないんですから」ということが世間でも通用する。ところが「原爆」というものになると、途端に通じなくなってしまう。「あなたには原爆の被害にあった人々の気持ちが想像できないんですか」と真顔で問われたりする。あなたにはないだろうか、そういう「正しいことを主張する人間に問い詰められた」ことが。

正義を主張する人は、多くの場合、傲慢である。僕の目にはそう映る。例えば、反戦運動。例えば、自然保護や環境破壊。そういう、自分の主張が正しいと信じている、のみならず多くの場合、客観的に見て確かにその人々の主張は正しいと思えるような人々というのは、なぜああも傲慢なのだろう。自分たちの主張に耳を傾けないのは誤りだ、正しいと思っていながら何もしないのは怠慢だ、なぜ自分たちに協力しないのだ、といわんばかりの人間を、僕はこうした人々の中に山ほど見つけてしまう。もちろん、謙虚に地道に活動している人も多くいるのだろう、けどそうでない人の姿が目立ってしまうのはなぜなのか。

「正義を主張する人」は基本的に傲慢である。僕はそう思う。なぜって、それは「正しい」から。正しい人間というのは、傲慢である。より正確に言うなら、正しい主張は、人間を簡単に傲慢にする。自分に対し、表立って「間違っている」と非難できないような状況になれば、誰だって「ほら見ろ。オレは正しいんだ」と思ってしまうんでないか。普段そうした立場に身を置いたことのない人間であれば、特に。であるからこそ、正しいことを主張する人間というのは、必要以上に「自分が傲慢であること、不遜であること」を意識しなければいけないのではないか。

世の中には「正しい主張」というのが確かにある。「戦争をなくそう」「自然を守ろう」「なんとかを追放しよう」「なんとかを守ろう」・・どれもこれも正しいもの、なんだろう。だが「正しい」ことであっても、いや「正しい」ことだからこそ、それは他人に強制してはならない。人がそれを支持するかどうかというのは、それが「正しいか否か」とイコールではない。正しいと思っても今は興味が持てない。正しいと思うが自分はあなたたちとは別の方法をとりたい。正しいと思うがその主張は現実的とは思えない。さまざまな理由で人は「正しい主張」の受け入れを拒否する。そして、それは決して悪いことではない。

だが多くの「正しい主張をする人々」は、「自分の主張が正しいと認めていながらそれを拒否するのは間違いだ」と決めつける。「正しいと思うんだろ? ならなんで賛成しないんだ!」と声高に詰め寄る。僕はそれがイヤだ。「お前のいっていることは正しいが、お前が気に入らないから賛成しない」と思ったりする。それは、間違いなのか? それは許されないのか? だって、そういうことってあるだろう?

そもそも「正しい」というのは何なのだろう。例えば「反戦」というようなことであれば、誰もが納得できるかも知れない。だが「神は存在する」とかいうことになると、これはちょっと???と思う。だが、どっちも「それを正しいと信じて主張する」ということについては同じだ。正しさと一口に言っても、それは「多くの人が同意できるもの」と「一部の人間しか同意できないもの」がある。が、その正しさを主張する本人には、それがわからない。「なぜ、信じないの? こんなに正しいのに?」そう思ってしまったりする。

「反戦」「平和」というものであっても、例えば戦時中の日本ではそれは正義ではなかった。正しさは時代や世相によっても変わる。今、誰もが「正しい」と信じているものであっても、それがこの先永遠に正しいとは限らない。「正しさ」とは、そうしたうつろいやすいものだ。だが多くの「正しい主張をする人々」は、それが絶対的に正しいものであると錯覚しているような気がする。そうした「自分の奉じる正しさ」への検証を、正しい主張をする人々はなしているだろうか。そのことが僕はとても気になるのだ。検証されない主張は、たとえ正しくとも支持されることはないのだから。

正しい主張をする多くの人々へ。あなたの主張が正しいか否かということと、それをこっちが支持するかどうかということは全く別のことです。どうか、「正しい」ということをもって相手に何かを強要するようなことだけはしないでください。あなた方は、「正しい」というだけで既に十分威圧的なのです。そのことにどうか気づいて下さい。

公開日: 土 - 12月 4, 2004 at 06:37 午後        


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