なぜ一流の人間に立派であることを求めるのか


あることで一流である人間が、人間として立派な人であるわけではない。それでいいじゃないか。だからといって、その人の値打ちが下がるわけでもあるまいに。

しばらく前から、ずっと気になっていたニュースがあった。それは「ボビー・フィッシャーが成田の入管で逮捕された」という記事だった。なんとなく、喉の奥に魚の骨が引っかかったような、気持ちの悪い感じだった。——それが、今朝の新聞で、日本チェス協会の女性との婚姻が進められている、と報じられた。その女性はしばらく前から一緒に住んでいた方ということで、もしそうなれば、日本国内で暮らせる道が開けるのかも知れない。ちょっとだけ、喉の奥の小骨がはずれかけた感じだ。

ボビー・フィッシャーは、チェスの元世界チャンピオンである。単なるチャンピオンではなく、人類史上、最強のチャンピオンだと僕は思ってる。同時に、僕のチェスの先生でもある。(なぜなら、僕はボビーの書いたチェス入門でチェスを覚えたからだ)

チェスのチャンピオンというのがどれだけ偉大なものか、日本人にはあまりピンとこないだろうと思う。例えば囲碁や将棋の名人を世界規模に拡大した感じ、だろうか。彼は、まだ鉄のカーテンの中だったソビエト連邦に乗り込み、当時の世界チャンピオンだったソ連のスパスキーと対戦してチャンピオンの座を奪い取った。当時、チェスの世界ではソ連が圧倒的な強さを持っており、米国なんてのは足下にも及ばなかった。「宇宙ロケットも核ミサイルも何でもソ連に勝つ自身はあるが、チェスだけはお手上げ」といわれた。それを単身ソ連に乗り込んで勝利をもぎ取ったボビーは、まさしく「アメリカの英雄」だった。——それが、今は米国では犯罪者として扱われ、日本においては入管法違反で逮捕されてしまうなんて。

ボビー・フィッシャーがなぜ逮捕されたか。それは、今から12年前、1992年にまでさかのぼる。1992年、彼はユーゴスラビアで、再び、かのスパスキーとチェスの対戦を行なう。ボビーはそれ以前から奇行で有名で、チャンピオンの座も剥奪されてしまっていた。既に、チェスの世界では彼は閉め出されていたといってもいい。けれど、スパスキーとの再びの対戦にだけは応じたかったのだろう。スパスキーは、たぶん、彼にとって唯一のライバルであり、そしてもっとも彼を深く理解する人だったんではないか。

当時、ユーゴスラビアは内戦のまっただ中だった。米国はユーゴスラビアに対して経済制裁を加えている最中で、多額の賞金をかけたチェスの試合というのは経済制裁に違反する行為だったわけだ。米国は試合を棄権するようボビーに連絡し、彼はその手紙にツバを吐きかけて試合に臨み、そして勝つ。——米国は彼を訴追し、逮捕されれば10年の禁固刑に処されると真しやかにいわれた。以来、ボビーは世界各地を転々として行方をくらますことになる。

12年、自由に逃亡生活をしていたボビーが、なぜ突然逮捕されたのだろう。よく聞くと、「行方不明」だったというのは全くの嘘で、実はフィリピンと日本の間を行ったり来たりして生活しており、フィリピンではラジオの番組まで持っていたんだそうだ。もちろん、パスポートもちゃんと持ってる。要するに、みんな居場所を知っていたのだ。いくら米国で訴追されているとはいえ、こんなくだらぬことで本当に彼を逮捕するようなバカはいまい、と誰もが思っていたのだろう。

ところが、逮捕された。一体なぜ? それは、彼の逮捕が7月13日だった、ということからなんとなく想像がつく。7月13日といえば、かの曽我ひとみさんの夫・ジェンキンスさんの来日の直前である。——となれば、我が日本の愛犬ポチこと小泉首相が何を考えたかわかる。彼は、ジェンキンス氏の訴追を逃れるための取引の材料としてボビー・フィッシャーを差し出したのだ。彼は、あのニューヨークのテロ事件以来、反米発言を繰り返していて、米国からすれば「目の上のこぶ」だったのだろう。

だがね。それでいいのか。ボビー・フィシャーは、世界中の何億というチェス愛好家にとってヒーローだったのだ。確かに彼は奇人だった。難しい性格をしていたようだし、彼の言動に腹を立てた人も多かっただろう。だけどね、彼は世界チャンピオンだったのだ! 世界中で、もっとも強いチェスプレーヤーだったのだ! わずか14歳で全米のチェスチャンピオンになり、絶対的な強さを誇るスパスキーを初めて破ったのだ。それだけで、彼は十分すぎることを世界中の人々にしてくれたんじゃないか。

——人間は、平等じゃない。ろくでもない人間もいれば、人並みはずれてすぐれた人間もいる。どんな人間であれ、すべての点で合格点の人などいないんだ。ダメなところ、イヤなところは山ほどあるけれど、でもこんなにすぐれたところもある。だからこそ、差引勘定して「まぁ、そこそこマシな人間かな?」と思えるんじゃないか。

ときどき、「何かの頂点に立つ人間に、人間として立派であることを求める人」というのを見かけるけど、ああいう考え方がどうも好きになれない。より正確にいえば「大キライ」だ。例えば、プロ野球の選手とか、一流の俳優とか、そういう人間が何か不祥事をしでかすと、すかさず「人のお手本になるべき人間が・・」みたいなことをいう人、いるよね。バカじゃないか?と思う。一方で素晴らしい能力を発揮する人が、一方ではろくでもないことをしでかしてしまう、それが人間というものだろうが。

素晴らしいことを成し遂げたときにはさんざん持ち上げておきながら、何か間違いをしでかすと、かつて成した「素晴らしいこと」が全て帳消しになったかのように扱う。そういう人が多すぎる。間違ったことをしたとしても、それで「彼の成した素晴らしいこと」のが消えるわけでもないし、その価値が減るわけでもないのに。——もちろん、「立派なことをしたんだから、悪いことをしてもいい」といっているわけじゃないよ。ただ、そのときに「かつて、彼が我々多くの人々に何をしてくれたか」を考えてはなぜいけないんだ?ということなのだ。

——僕は、法治主義者だ。法は守らなければならない。だが、法というのは、「○○をしたら××の刑、以上」というようなものじゃない。その人の様々な事情などを考えて柔軟に対処する、そうできるようにちゃんと法律というのは作ってあるのだ。法のために人間がいるんじゃない、人間のために法があるんだ。弱者を強者から守るためにこそ法は存在するのだ。その根本原理の通じない法など法ではない。ときどき法を笠に着て弱者をいじめようとする強者がいる。「私は法治主義者であります、法律は守らないといけません」といって弱いものいじめをするやつね。そんな法の精神を守らず逆手にとって自分の都合のいいように利用する人間のどこが法治主義者なものか。そういう手合いは「無法者」というのだ。

関係者の皆さん、なんとかボビーが日本で暮らせるようにがんばってください。日本ではほとんどニュースにならなかったけど、この小さな事件は世界中から注目されているのだ。そのことを、ポチ、よく考えるように。あんたの代りはいくらでもいるが、ボビーの代りとなる人間は世界中を探したっていないんだから。

公開日: 金 - 8月 20, 2004 at 05:24 午後        


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