引きこもり殺人の判決


・・が出た。重すぎる、とは思わない。

今日、ちょっと注意を引く判決があった。昨年10月、自宅に約20年間引きこもった末に両親を殺害した37歳の息子の判決が出たのだ。懲役16年。執行猶予はつかなかった。——これは、被告が長期の引きこもりだったということから注目を集めた事件だったと思う。母親は長い間寝たきりになっており、介護していた父親は癌に冒されていた。借金は増え続け、先行きを悲観した息子が無理心中をはかったのだが死にきれずに自首。そういう事件だった。

判決文にこうあったのが僕の目を引いた。「無理心中に両親は同意していたわけでなく、浅はかな思い込みで重大な結果を招いた責任は大きい」と。何が目を引いたのかというと、「無理心中」という言葉だ。——僕は「無理心中」という言葉がキライだ。これは「殺人と自殺」というべきであろうと思っている。「心中」という言葉を使うことで、どこかしら「殺人とは違うもの」のような、どちらかというと「自殺」に近いようなイメージを与えているように思うのだ。が、無理心中は、文字通り「いやがっている相手を無理矢理自分の心中につき合わせる」わけで、要するに殺人である。メディアはいつまでこの「無理心中」という用語を使い続けるのか、と思う。

先行きを悲観したなら、自分一人で死ねばいい。「このまま生きていても不憫だ」というのは、余計なお世話である。本当に死ぬしかないなら、そのときに本人が自分で勝手に死ぬだろう。他人がそれを先取りして殺す必要など全くない。

この事件では、引きこもりの支援団体などが寛大な判決を求めていた。僕は、引きこもりというものについてあまり同情的な考え方ができないこともあってか、こういう意見に否定的な見方をしてしまう。——これが逆ならわかる。親が、長年引きこもりだった息子の面倒を見るのに疲れて殺した、というなら情状酌量の余地は多分にあると思う。だが、引きこもっていた息子の方が、親の前途を悲観して殺す、ということが全く理解できない。親の前途を悲観するなら、とっとと外に出て働くか、「苦労をかけてすみません」といって一人で死ぬかすればよい。親を殺して自分が生き残る意味が皆目わからない。

僕には、引きこもりの立場というのがうまく理解できない。おそらく、そういう人たちはそれなりに辛いのだろう。僕には判らないだけで、さまざまな事情があるのだろう。だが、例えば鬱病などの病気などでやむを得ないということならわかるが、それ以外のケースはどういう心情なのだろう。・・おそらく「外に出て働く」というのは、引きこもる当人にとっては、とてつもなく大変なことなのだろう。だが、それは、自分の親を殺す以上に大変なことなのか。引きこもる人間にとって、「外に出るよりは親を殺す方を選ぶ」のは理解できることなのか。

親を殺したら、もう引きこもりは続けられないのだ。そのまま餓死するかしない限りは。親を殺すということは、すなわち「引きこもりの終わり」を意味しているはずだ。——なのに、なぜ親を殺す?

ともあれ、被告はもう引きこもれない。もうそういう暮らしには決して戻れない。——おそらくそれは、被告と被害者である両親が望んだことではあるだろう。このまま刑が確定したとして、仮出所になるのはおそらく40代後半。それまで一度も世の中に出たことのない人間にとっては、厳しい年齢だろう。そういう厳しい道を、親の命と引き換えに自ら選んだのだ。頑張って生きるか、あるいは死ぬかしてください。

公開日: 月 - 4月 25, 2005 at 07:16 午後        


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