悲しむべきこと


いつも頼んでいた店がなくなった。悲しすぎる・・。

今日は午後から車で近所のモールへとお出かけ。取り立てて買い物しないとということがあったわけじゃないけど、まぁうろうろしてソフトクリームを食べてプレイルームで娘を遊ばせてと、それなりに休日を満喫して帰ってきました。——で、「疲れたから夜は出前で」というわけで、よくお願いしている釜飯を頼むことにした。都賀にある「米泉(まいせん)」という店で、ここの鶏釜飯が絶品なのだ。我が家では「ちょっとした贅沢」として、ここの釜飯はよく頼んでいた。

ところが。嫁が電話をしてみると、なんと「お店、閉めちゃったんです」とのこと。が〜〜〜ん。急遽、ご飯を炊いて夕ご飯をすませることになってしまったのであった。これは、かなりショックだった。閉めてしまったってことは、つぶれちゃったってことなんだろう。ということは、もうあの釜飯は食べられないってことではないか。ここは、本当に信じられないぐらいに鶏の扱い方がうまくて、料理ごとの下味の付け方も微妙に違い、「何度食べてもどうやって味付けしてるのかわからない」と嫁が頭をひねっていた(しまいには「あそこでバイトして作り方を盗んでくる」と口走ったぐらいだ)。釜飯の火加減なども「お見事!」といいたくなるぐらいにまさに絶妙で、全てにおいて完璧だった。更には冷や奴やナメコのみそ汁なんていうあまりにも地味なものまでやたらとおいしく、「なんだってこんな片田舎にこんな店が」と不思議でしょうがなかった。長年、東京に暮らしていたが、ここまでうまい釜飯屋は記憶にない。

「結局、このへんはファミリー世帯が多いから、子供があんまり食べないものはお客が来ないんだろう」と嫁がいっていた。そうなんだろう。確かに子供と一緒だと、ファミレスだのファーストフードだのといったものになってしまう。釜飯なんて地味〜〜なところに行きたがる子供はあまりいまい。——だが、「家族でお出かけしてお食事」がファミレスなんですかい? そっちのほうが僕には信じられない。そりゃ、小さい子供連れでも安心して入れるといったら他にあんまりないんだろう。けど、あれは「メシ」あるいは「エサ」を喰う場所であって「お食事」をする場所じゃないだろう。

田舎にはおいしいお店がない、という。だが、そうじゃない。おいしいお店に田舎の人間はいかないのだ。すぐそばに地味だがおいしいお店があっても、そこを通り過ぎ、まずいファミレスへ行く。それが当たり前だと思っている。——千葉に来て1年以上になるが、はっきりいってここの文化水準は非常に低い。衣食住、そういう基本的な部分をなおざりにして暮らしている。千葉にはまともな本屋さえない。中心地である千葉市街まで出てもせいぜいデパートの本屋があるくらいなものだ。

よいものがないのは、そこに暮らす一人一人の人間が自分自身で物事の価値判断をし、安くていいものを選ぼうという努力を放棄しているからだ。ただ安いだけのもの、有名なもの、みんなが選んだものを、それが良いものかどうかを考えることなく選ぶ。そんなところに良いものなど生まれるはずがない。良いものは、自分たちが育てるものだ。待っていれば、良いものが回り中に転がっているような世の中がやってくると僕らは勘違いしていないか。たとえ良いものが目の前に現れても、みんなの目が節穴だったらそれは消えていくのだ。残念ながら、千葉には、この都賀という街には、文化的盲者ばかりが住んでいるようだ。

米泉のご夫婦、今度はもっとちゃんと味のわかる人たちが住んでいるところでどうか再起して下さいませ。あの味がなくなってしまうのはいかにも残念。どこかでまた再開すれば、例え遠くても必ず食べにいきますよ。(ただし国内限定)

公開日: 土 - 10月 2, 2004 at 11:03 午後        


©