よかれと思って・・


黙っているのが美徳というのは、誰のために生まれたものだろうか。

妙な記事が載っていた。白骨温泉で、8年前から野天風呂に毎朝入浴剤を入れていた、というのだ。白骨は独特の白いお湯で有名だったのだけど、8年前に原泉を移動したら茶色っぽいお湯になってしまった。で、しょうがないので毎朝、草津温泉の入浴剤(笑)を入れていたそうだ。

もう1つ、こういうニュースもあった。三菱自動車で、報告書を偽造した社員を懲戒解雇するというやつ。クラッチハウジングの「破断(完璧に割れちゃってる)」というのを見て、直感的に「まずい」と思い、「亀裂(ちょっと割れただけ)」に書き換えたという。

この2つ、全然違うニュースなんだけど、当人たちの言葉がそっくりなのだ。「××のためによかれと思ってやった」というやつ。前者は、白骨温泉街のために、後者は会社のために、よかれと思ってやった結果が最悪のものだった、ということなんだね。

こういう「よかれと思って」という言葉、何か問題が起こったりしたときによく耳にする。本当に相手にとってよいかどうかではなく、よかれと思って誤ったことをしてしまうのだ。——日本では「あうんの呼吸」とか「以心伝心」とか「ツーといえばカー」とか、要するに「何も言わなくても、わかってるよな?」というようなことをよくいう。言葉や文章で伝えるのは野暮ってもんだ、いわなくってもわかるだろ、な? てなやつ。それが一種の美徳であるように思われて来た。本当に「よかれ」かどうか、相手に聞けばはっきりわかるのに、それはしない。あくまで、よかれと「思って」、自分の胸の中だけで相手の胸の内を忖度し判断しないといけない。そうすべきだ。そういう感覚が日本人の中にはある。

だが、なぜそれが美徳だったのだろう。思えば「美しい言葉で伝える」ということが美徳となる可能性だってあったわけだ。奈良平安ぐらいには歌で気持ちを伝え合ったりする風雅な時代もあったわけだしね。それが、なぜ気がつけば「何も言わない」のが美徳となったのか。——それは、そのほうが支配する側、管理する側にとって好都合だったからではないのか。言葉や文字で証拠を残さない。それは、いざとなれば下を切り捨てることが簡単にできることを意味する。上に立つものにとって、こんな都合のいい「美徳」はない。

古くからの習慣とか決まり事といったものの中には、ある特定の人間たちの利権を守るために作り出されたものがけっこうあったりする。今回の2つの件も、「何事もきちんと言葉で伝えるのが美徳」であったなら、違った展開だったかも知れない。解雇された三菱の社員や白骨温泉の役員個人に「お前が悪い」といって責任を取らせて、それでおしまい、ということでいいんだろうか。僕には、彼らはむしろ被害者のように見えてしまうのだ。言葉にならない決まり事にしばられ、そうするしか選択肢がなかったのではないのだろうか。僕には、彼らよりもっと上の方で、ことの成り行きを見ながら「よしよし、これでケリがついた」とほくそ笑んでいる人間がいるような気がしてならないのだ。

もちろん、彼らにも責任はあるだろう。だがそれは、彼らが行なった行動そのものというよりも、「よかれと思って・・」という「よかれ」を誰のためと思っていたか、という点にあるように思う。もし、「お客さんのために」よかれと思って・・と考えることができたなら、彼らの行動はまた違ったものになっていたに違いない。

こうした、個々の事件の個々の責任を考える前に、この日本における忌まわしい風習、「言葉にしないのが美徳である」という感覚を払拭できないものだろうか。言葉にしなければ何も伝わらないのだ。どうせなら「どれだけすてきな言葉で考えや気持ちを伝えられるか」が美徳となった方が、きっと世の中は楽しくなると思うんだけどな。

公開日: 火 - 7月 13, 2004 at 11:03 午前        


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