敵討ち論?


江戸時代の敵討ちってのは、実際、どうだったのかね?

前回、死刑容認の意見の中で「敵討ち」について触れたけど、あちこち死刑制度に関するサイトなどを見ると、実に頻々とこの言葉が出てくる。「敵討ち制度を復活させれば・・」とか、「死刑がなくなれば、敵討ちが復活する」とかね。——で、「敵討ちって、ほんとのところはどういうものだったのよ?」ということについてちょっと考えてみたのであった。意外に、その実際のところは知られていないんだよね。

1.許可制だった。
まず、これが基本。敵討ちをしたい場合は幕府に願い出て、その許可を得ないといけない。その際、登録の写しの書状をもらう。これがいわば許可証になるので、仇討ち中は常に携帯が義務づけられます。従って、かの有名な「赤穂浪士の敵討ち」は無許可であるため違法であり、あれは「敵討ち」ではなくてただの「集団暴行事件」なのであります。

2.敵討ちは、武士の特権だった。
絶対に忘れてはいけないのが、これ。武士以外のものは、たとえ願い出ても敵討ちはまず認められなかった。水戸黄門なんかで、町娘が「おとっつぁんの敵!」とかやってるけど、あれは大嘘。あり得ません。

3.逆向きの敵討ちは不許可!
例えば、「子が親の敵を討つ」とか「雇用されていた人間が主の敵を討つ」とかはOKだが、「親が子の敵を討つ」というように逆向きのものは許可されなかった。——だけど実際の感情としては、親を殺されたときより、我が子を殺されたときの方が「絶対に復讐してやる!」と思うものでないのかな、と思ってみたり。

4.凶悪犯限定!
親や主君が殺されれば即、敵討ち、なわけじゃなかったのだ。ふつーに殺された、ということで許可が出ることは滅多になかった。よっぽど悲惨な目にあったか、凶悪犯でないと許可されなかったのだ。

5.敵の敵はダメ!
敵討ちで討たれた側の遺族が敵討ちを申請しても、これは不許可。つまり「敵討ちの連鎖」は禁じられていたのだ。だから常に「敵を討たれた側は泣き寝入り」だったんだね。

6.敵討ちをするためには、失業を覚悟!
通常、敵討ちが許可された場合には、主君に「永の暇」を願い出るのが基本だった。要するに、禄を離れ、浪人とならないといけないのだ。主に迷惑をかけないためにね。そして、敵を討って戻ってきたら、「あっぱれ」ということで家を再興してもらう、という慣習だったようだ。従って、仇を討つまでは全くの無収入となる。だから、よっぽど裕福な家でない限り、仇討ちはかなり経済的に辛かったらしい。

7.助太刀にも許可がいるのだ。
よく、「○○に助っ人!」とかいって助さん角さんが敵の仲間をばったばったと切り倒したりしておりますが、あれはすべて「違法」であります。助太刀をする場合には、事前の許可を願い出ないとダメ。

8.仇を討った後も手続きがいるのだ。
無事に仇を討った場合も、ちゃんと役所に届け出るなりして「これは敵討ちです」ということを証明しないとダメ。この際には、幕府から貰った敵討ち許可の書類をきちんと用意しておき提示しなければダメです。

9.もう一つの敵討ちもあった。
こうした一般的な敵討ちとは別に、もう一つ、異質な敵討ちもあったことを忘れてはいけない。それは女敵討ち(めがたきうち)」である。江戸時代、不貞を働いた妻(要するに浮気したら、ね)は切り捨てていいことになっていた。で、女房が男と駆け落ちをしたようなときには、願い出て、妻と男を探し出して殺すことができた。これが女敵討ち。「敵討ち復活」とかいってる人、こんなもんが復活したら・・しかも「男女平等」ということで逆も可になったら・・慌てる人、多いんじゃない?

——以上のようなことからわかるように、敵討ちは、決して「遺族の復讐のためのもの」ではなかった。その運用は非常に細かなルールに従ってなされており、最低限のものに限定して許可されるだけだった。これは、見ようによっては現代の「死刑判決」に似た感じがするね。ただ「身内を殺されたんだから、相手を殺してやる」というだけでは、敵討ちは決して許可されなかった。それが非常に凶悪残忍であり、犯人逮捕ができなかった場合、社会に大きな影響を与えるような場合においてのみ、限定的に許可されていたのである。だからこそ、厳格に運用をし、それから少しでもはずれた敵討ちはすべて「ただの殺人犯」として処分した。そうすることにより、「勝手な私刑は許さない」ということを示していたわけだ。

※仇討ち奨励の真相は?
・・ところが、こうした実際の運用の一方で、幕府は「敵討ちを褒め讃え」ていた。武士だけしか敵討ちはできないのに、例えば百姓が敵討ちを(無許可で)行なったのを大々的に取り上げて、士分に昇格させたりしている。これが原因で、どうも「敵討ち礼賛」的な古習が生まれてしまったんじゃないかと思うんだけどね。

一方で厳格に敵討ちを行なわせながら、一方で「敵討ちは立派だ」という。それは何故なのか。——その最大の理由、それは「敵討ちというのが、幕府が人々を支配しコントロールするための手段の一つ」であったからだ。既に戦国の時代を遠く過ぎ、太平の世が続いている中、いかにしてだらけきってしまった武士を統率し幕府に仕えさせるか。「主従関係」をしっかりとさせ、ひたすら主君のために滅私奉公する、それが当たり前だという世の中を維持していくか。それが幕府にとって悩みの種だった。「君主の仇を討つ」という仇討ちは、この「お家大事、滅私奉公」というものの恰好の宣伝材料だったわけだ。

この宣伝活動は非常に有効に機能した。江戸時代、有名な仇討ちは読本となったり芝居になったりして庶民の間で評判となった。そうして「無念に思う遺族が復讐する美談」というものが広まり、「敵討ちは遺族の権利」となっていったのだろう。——従って幕府は、敵討ちというのに厳重な枠をはめ、ほとんどのものを不許可にして敵討ちを減らす一方で、実際に行なわれた数少ない事例を利用して「主従関係の重要さと滅私奉公」の教育を行なっていた、というのが、江戸時代の敵討ちの姿だった、といえる。

※仇討ちは「復讐心」ではなく「名誉」?
——だが、こうして「敵討ち礼賛」のようなものが広まりはしたが、それは「亡くなったものの無念」とかいったのとは違うものだった、ということを忘れてはいけない。別に被害者感情が重視されたわけではないのだ。何かというと、それは「名誉の問題」であったんだよね。「君主が、親が殺されたのに、仇討ちもしない」という不名誉から抜け出し、「苦節ン年にして見事本懐を遂げた、あっぱれな男」という名誉を手に入れる、そのために仇討ちは行なわれたといっていい。

殊に、武士というのはそういう体面を何よりも重んじた。そう、今では考えられないことだが、たかだか身内の者の命なんかよりも「お家のメンツ」のほうがはるかに重要だったのだ。だから「大切な身内が殺された」から仇を討つという一方で、例えば浮気をした妻や罪を犯した我が子を「お家の恥」と平気で殺したりしている。今の「遺族の感情からすれば敵を討ってやりたいと思うはずだ」というような感覚と、昔の敵討ちは全く違うものだったのだ。

更に折口信夫などは「祓いの儀式」としての敵討ち信仰というものに言及している。——古来より、日本には「汚れ」と「祓い」という信仰が根深くあった。人が殺される、それは今でこそ「殺した奴が悪い」のだけど、その昔の神から見れば「殺された方が悪い」という面がある。それは、「血を見る」ことにより、そのものが「汚れた」からだ。だからこそ遺族は、殺した相手の血を流すことで「祓う」必要があった、という。まぁ、このへんになると日本の信仰うんぬんの話になるので正直僕には正確なところは判らない。ただ、古来より日本においては「天寿を全うしての死は祝福されるが、横死は忌まれる」という習いがあったのは確かで、この「殺された側の物忌みを解く」ということが敵討ちへと変化したことは十分考えられるように思う。

※もう一つの「私闘禁止」ルール
・・この「敵討ち」という制度ばかりに目が向いてしまうために、「昔(江戸時代)は、私刑の権利があったのだ」などという誤解が生まれてしまうのだが、実をいえば江戸時代にはもう一つ、「殺人」に関する非常に重要なルールがあったことを忘れてはいけない。それは「喧嘩両成敗」というルールである。——喧嘩両成敗は「喧嘩をするのはどっちかが悪いのではなく、両方とも悪いのだ」ということなんだけど、これは「いわゆる世間的にいう敵討ち」とは正反対の精神から誕生していることに気づいて欲しい。それは「私闘の禁止」である。喧嘩してどっちかがどっちかを殺した。そんなとき、喧嘩両成敗により行政が両方に罰を科すことで「殺された方が、殺した方に勝手に復讐する」ことを禁じたのである。

そうなのだ。江戸時代であっても、「個人の感情にまかせた私刑」というのは固く禁じられていたのである。そのことを忘れて「江戸時代には遺族が復讐する権利があった」などと錯覚してはいけない。

※なぜ明治になって敵討ちは禁止されたか?
その後、明治時代になって敵討ち禁止令が発布されて、敵討ちの歴史は幕を閉じるのだけど、この禁止令には、こんなことが書かれている。

人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ、讐ヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ古習アリ。右ハ至情不得止ニ出ルト雖モ、畢竟私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私儀ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固擅殺ノ罪ヲ免レズ。

「人を殺すということは、国家が禁じているもっとも重い罪であって、人を殺したものを罰するのは政府の公権である。昔から、父兄の復讐をするの子弟の義務だというような習慣があった。感情が抑えきれずにやむを得ない面もあるのだろうが、結局は私憤から国の決まりを破り、個人の事情で国の公権を侵すことでしかなく、みだりに人を殺す『殺人罪』を逃れることはできない」

既に国を運営するのに「主従関係」などというものを必要としなくなり、代りに「国家の権力と法律」というものを手に入れた明治政府にとって、敵討ちは不要だった。それどころか、こいつはせっかく築きかけた国家権力による法治社会にひびを入れかねないものだった。だから禁止は当然の措置だったのだ。

・・いずれにしろ、江戸時代でも明治時代でも、敵討ちが「遺族のため」のものであったことなど一度もなかった。それは「支配する側の道具」でしかなかった。敵討ちがあった時代も、死刑制度になった今も、そしておそらくは死刑が廃止になった時代が来ても、「遺族の復讐の権利」を国家が公に認めることなど決してあり得ないだろう。——中世から近代に至る歴史、それは「いかにして私怨、私闘をなくしていくか」という歴史でもあったのだ。個々人がそれぞれ勝手に考えて好き勝手に行動する世の中から、いかにして国家により統率された社会に移行するか、それが最大のテーマだったのだから。


・・以上、敵討ちについて覚え書き的にまとめてみたのでした。っても、しょせんはシロウトの聞きかじりによる耳学問なので、歴史的に見て正確なところは全然違ってるかも知れない。間違いなどあればどうぞご指摘くださいませ。

公開日: 火 - 3月 1, 2005 at 02:57 午後        


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