真実と事実
真実も事実も、世の中にはたくさんあるのだね。
しばらく前のことになるけど、新聞で小谷真生子さん(ニュースキャスターの人ね)のインタービュー記事が出ていた。そこで、「自分はあくまでキャスターにこだわりたい」というようなことを語っていたのだけど、その中でちょっと目に留まるセリフがあったのだね。それはこういうもの。
「真実はたくさんあるが、事実は一つしかない」
なるほどな、と思った。世の中では「真実は一つ」みたいなことがよくいわれる。もともとは「嘘詐りのないこと」程度の意味合いだったものが、今ではなんというか「唯一絶対の真理」のような感覚で用いられることが多くなった。そして「真実」という言葉の真実度(笑)が高まるにつれ、真実という言葉をたいした意味もなく乱用する人も増えてきた。(←このブログの作者とかね)
が。この世の中に「絶対的に本当だと保障されたもの」などないのだよね。人が百人いれば、百人にとっての百通りの真実がある。真実は結局のところ、考えであり意見であるから。——だが、「事実」は一つしかない。事実は、ただ「××に○○があった」という、あったこと、起こったことの集合に過ぎない。その解釈によって百万通りの真実は生まれるが、百万通りの事実はない。だからこそ、その部分にこだわりたい、ということなんだろう。
昨今の「我こそは真実を求める者なり」みたいなことを主張する人たちの中にあって、この感覚はとても貴重だと思った。そういう意味では、小谷さんの今後の活躍を見てみたい気がする。少なくとも「私は真実を知っています』的な人間よりは遥かにおもしろい仕事をしてくれるだろう。——ただ、彼女の言葉に僕が100%賛同できるわけではないのだけどね。なぜなら、僕はこうも思うからだ。「事実も、たくさんある」と。
僕らはすべての事実を手にし得ない。——事実は「何がわかり得たか」によって変わる。ある事実があったとしても、その後に別の新しい事実が見つかったことによりその前の事実が誤りでああることがわかってしまうこともある。また真実は捏造できないが事実は捏造できる。——数多ある捏造や偽造された事実、誤った事実、決して人々に知られることのない失われた事実。それらのすべてを手にすることは僕らにはできない。事実の洪水の中から何を選び出すか、そこに何らかの恣意が含まれる以上、僕らが完全に客観的な事実を得ることなどまず難しい。
そうなのだ。つまるところ、真実にしろ事実にしろ、唯一絶対のものはあり得ないのだよね。真実は考えが違えば異なる。そして事実は、すべての事実を把握し得ないという点から、やはり唯一絶対の形にはなり得ない。
では、結局何も確かなものはないではないか。それでは何もわかり得ないではないか。——いや、そんなことはない。思うに、「決して誤りや曖昧さを含まない完璧な正しさ」というものを求める考えこそが誤りなのではないか。すべての正しいものには、いくばくかの誤りが含まれているのだ。この世のすべてには誤りが含まれている。そのことを承知の上で、人は生きることを始めるしかないのだよね。
・・なんか人生論みたいな話になってしまったな(笑)。他人に向かって人生論を説くほど落ちぶれてはいないつもりだったが、まぁいっか。別に難しいことをいいたいわけではなくてね、「真実」とか「事実」とか、なんというか「絶対的な正しさ」を信奉する人というのはたくさんいるのだよなぁ、というようなことを思ったのでした。小谷さんですら、気づかないうちに「事実は一つ」教の信者になっていたのだよね。どうしても、僕らはそういう「確かなよりどころ」みたいなものを求めたがる。どんなものであれ、常に。不確かなものばかりに囲まれた、不安定な状況から抜け出したがる。
確かなものなどどこにもない。そういう不安な場所に立ち続けるというのは、これはこれで体力のいることなのかも知れない。自分が果たしてどこまでそうした場所に居続けられるのか、いや、そもそも自分はそうした場所に今現在、立ち得ているのかさえ定かではないのだけど、そうあろうと思い続けるぐらいのことはできる人間でありたいものだ。無理だけどね(笑)。
公開日: 月 - 4月 11, 2005 at 06:00 午後