偽札作り


技術が向上するにつれ、偽札の質は低下する。

年末年始に、全国で偽札が見つかって大騒ぎになってる。百枚以上を使ったらしい容疑者は捕まってるけど、どうも他にもたくさん模倣犯がいるみたいだね。全員を見つけ出すのは至難の業だろう。コピーやプリンタ、コンピュータによるイメージ処理の発達で、誰もが簡単に、非常に高度な印刷物を作れるようになった。偽札も多くはこの「パソコンによるイメージ処理+カラープリンタ・カラーコピー」でできているらしい。

捕まった被疑者は、年末年始の人ごみのどさくさにまぎれて使えばばれないだろう、という感じで、神社の出店なんかで使いまくっていたようだ。実際、よく見れば手触りとかで「なんか変だ」ってすぐにわかるレベルのもののようだ。まぁ、似たような紙を探して印刷したとしても、手触りや透かし、立体感などまで作れるわけではないからね。

それにしても、だ。「偽札作り」というのは、その昔はある種の職人仕事のようなイメージが強かった。プロの職人がコツコツ原版を作って、本物と見まごうほどのものを作り上げる——みたいなイメージがあったのだよね。それが、技術の発達により、誰もが簡単に作れるようになった。そして、だからこそできあがる偽札は、本物そっくりだが「簡単に偽物とわかる」質の低いものが増えてきたような気がする。

そうなのだ。技術が発達し普及するに従い、それによって作られるものの質は低下する。僕は物書きなので、例えば文章に関しても感じるのだけど、ワープロソフトが普及し高性能になるに従い、人々が書く文章のレベルは確実に低下していると思う。一時期、「仮名漢字変換プログラム(インプットメソッドとかFEPとかいうやつね)の変換効率が向上するにつれ、誤字が増える」という不思議な現象が実際起こっていた。より高機能になるにつれ、人間はさまざまな部分を「技術に任せてしまう」ようになる。仮名漢字変換がよくなるに従い、多くの人は「ATOKがこう変換したんだから正しいんだろう」なんて思うようになる。いちいち変換された文字をチェックすることもなくなる。文章を書くのに「推敲」という言葉はもはや死語になりつつある。

もちろん、技術の進化によりよくなった部分はたくさんある。作業する人間の負担も軽くなるし、制作にかかる時間も短縮される。なにより、それまでは特別な技術や知識がある人しかできなかった専門的な作業を、そうした技術も知識も持たない人でも行なえるようになる。——だが、ここで僕らはときどき、大きな勘違いをすることがある。それは、それまで高度な技術がないとできなかったことが自分でもできるようになったことで「自分が向上したのだ」と錯覚することだ。例えば、高級なグラフィックソフトを買ったことで、まるでプロが作ったようなCGを作れるようになった。そこで「オレには絵の才能があったんだ」と思う。——それは間違いなのだ。「才能がなくてもできるようになった」だけであって、本人が何かしら向上したわけではない。周りのレベルが自分にまで下がってきただけであって、自分のレベルが上がったのでは断じてない。

偽札作り君は、高度な印刷物を簡単に作れた。だが、彼自身には何の技術も才能もなかった。だからこそ、「高度だが、質の悪い」ものしか作れなかったのではないか。そして——見回せば、世の中にはそうした「技術の向上により自分が向上したと勘違いした人が作った、高度だが低レベルなもの」が蔓延してはいないだろうか。高機能で素晴らしいけれど、センスのかけらも感じないもの。例えば高機能過ぎて使いこなせない昨今の車や家電製品、例えば使いにくいまでに過剰にデザインされた家具や雑貨、例えば不快なまでに作り込まれたフラッシュ・ムービー満載のWebサイト。その多くは、作り手たちが「自分にはすごい才能があるじゃん」と勘違いしているとしか思えなかったりしないか。僕らが作っているものは、果たして「精巧だが低質な偽札」とどれほどの違いがあるだろう。

「その素晴らしい作品を作り上げたのは、自分の才能なのか、それともすぐれた道具なのか」ということを僕らはたまに考えるべきなのかも知れない。

公開日: 日 - 1月 9, 2005 at 04:44 午後        


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