実名報道の意味って?


酒鬼薔薇聖斗が出所(?退院?)したそうだ。なにより心配なのは、「いつ、正体が暴かれるのか」ということだろう。

酒鬼薔薇聖斗という名前は、未だに大半の人間の脳裏にこびりついている。昨今、ひどい事件は山ほどあるけれど、酒鬼薔薇聖斗と宮崎勤は別格というか、数多の凶悪事件とは別扱いな感じになってるように思う。彼が医療少年院を退院し、社会に戻されることになったとのこと。もし、更生が完璧にうまくいったのであれば、どうか頑張ってまっとうな人間として生きて欲しいと思う。が、それはかなり難しいだろう。

まず間違いなくあるだろう未来。それは、写真週刊誌などが彼の居所を見つけ出し、現在の顔写真から住まいから職場から同僚からあまさず暴き立ててしまい、とても暮らせなくなって転落する、というシナリオだ。既に事件発生当時から、実名報道や顔写真の報道といった、少年法から考えれば明らかに違法な報道が公然と行なわれていた。社会人になった今、そうした報道姿勢をがらっと変えて自粛するとは思えない。

こういう事件を思うとき、いつも頭に浮かぶのは「実名報道がどれだけややこしい問題を引き起こしているか」ってこと。少年事件に限らないんだけど、こういう事件で、被害者や容疑者を実名で報道する意味というのは何なのだろう? これが例えば政治家の汚職であるとか企業の犯罪行為とかいったことであれば、政治家や責任者の名前を公にする意味はある。それらは公的な立場の人間であり、社会的な責任を負っているわけだから、社会的に彼らとその犯した罪を明らかにする必要はある。だけど、個人の犯罪に、その被害者や容疑者を実名で報道しなければいけない理由は何だろう? 僕にはどうもそれがわからない。

大人が犯した凶悪事件は実名報道され、少年事件は「少年A」となる。また少年事件でも被害者は実名で報道され、容疑者は「少年A」になる。「なぜ、罪を犯した少年だけが守られるのか」という感覚は、この「特別扱い」からきているんでないか。だから「凶悪な事件なんだから、特別扱いしない。実名で報道してやる」というスタンスの報道機関も登場した。——そもそも「すべての事件は被害者も容疑者も実名で報道しない」としてあれば、そうしたややこしい問題は起こらなかったんでないか。

「だけど、人殺しをした人間が、どこの誰かわからないんじゃ不安だ」という意見はある。本当は「実名報道してもおんなじ」と僕は思うんだけど、まあそうした意見はあるだろう。だけど、少なくとも「被害者を実名報道する必要」はないよね? 例えば誘拐事件などで公開捜査に踏み切って公に被害者を捜索する必要があるような場合は意味はあるだろう。だけど、例えば殺人事件で殺された被害者を実名で(かつ、顔写真入りで)報道する意味は、一体なんだろう?

いろいろと理由を取り繕うことはできる。けれど、正直にいおうじゃないか。実名報道がなされる一番の理由、それは「単なる野次馬根性」だ。お茶の間で夕飯を食べながら「ま〜、こんな若くてかわいい子が殺されたんだって。やあねぇ」とかいったり、「ほら、こいつ、いかにも人殺しそうな顔してるよ」などといいあったりして飯の種や酒の肴にするため、それだけのために被害者と加害者の人権を無視されて報道されるのだ。そうじゃないか? 知る権利だの報道の自由だのとってつけたような理屈を並べるのはもうよそう。実名報道は、単なる覗き趣味だ。それ以上でもそれ以下でもない。僕らの心には、そうしたいやらしい部分が常にある。そのことをまず、僕ら自身で認めよう。

少年事件の問題とか更生と社会復帰とか、酒鬼薔薇聖斗の退院が巻き起こす問題は山ほどある。けれど、そうした具体的な問題以前に、まず、僕らの中から「下衆野郎の心」を駆逐することから始めよう。制度よりも法律よりも、何より大切なのは世間一般の心のあり方だ。人間を更生させるか、再び罪に走らせるか、それを決めるのは法律や制度じゃない。世間というものの心の持ちよう次第なんだきっと。

公開日: 水 - 3月 10, 2004 at 04:55 午後        


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