シュレーディンガーの猫
箱の中にいる猫は、その箱を開けて中を確認するまでは、生きてもいるし死んでもいる。あるいは、拉致された人々は、結果が確定するまでは生きてもいるし死んでもいる。
拉致問題で北朝鮮から再びボールが投げ返されてきた。が、正直いってその結果は期待はずれだった。いや、北朝鮮の答えが、じゃない。それを受け取った日本側の反応が、だ。——いつの頃からだろうか、日本において、北朝鮮との間に「外交」がなくなってしまったのは。でっかい批判が来ることを覚悟の上で言えば、日本では北朝鮮との外交の方向は「家族会」が決めているように見えるのは気のせいだろうか。「あんな嘘ばかりつく国との間に外交交渉などあり得ない」という、「北朝鮮のいうことはすべて嘘で、いっていることはすべて間違いだ」といった考え方だけで北朝鮮交渉が進められたりしてないだろうか?
「嘘ばかりつく国と交渉などできない」と政府や与党でいう人もいる。そういう姿勢が案外とまかり通ってしまったりする。外交とは、「正直で嘘詐りない人たちがやること」だと思っているのだろうか。どこの国であれ、外交交渉なんてものは嘘、はったり、脅しの繰り返しだ。自分の国の事情を何から何まで正直に話してしまって交渉などできるものか。——日本では長い間、「米国のいうなりになっていれば外交は全てオッケー」という時代が続いてきた。その結果、こうした手練手管で相手から何かを引きずり出す「交渉」というもののできる外交官が育たなくなってるんじゃないか。北朝鮮に限らず、米国との交渉でさえ、そういう「相手の言いなり」な態度が透けて見えるように思うのは僕だけじゃあるまい。
国と国との関係は、ありとあらゆる要素を駆け引きにして行なうべきものだ。なにしろ、相手との国のあり方そのものが問われる交渉なのだから。それが北朝鮮に関しては、「拉致問題」という1点だけですべての交渉がなされているような気がしてならない。食料援助、経済支援、核施設問題、切るべきカードは山のようにあるはずだ。だがそれらはすべて「拉致問題が解決するまではおあずけ」として金庫にしまったままの状態だ。それで外交なんてできるものか。
そして、肝心の拉致問題そのものにしても、本当に解決などできるのか。北朝鮮側の努力によってこの問題が解決することなどあり得ないと僕は思う。家族会および関係者の巨大な抗議を覚悟の上で僕はこういいたい。もし解決できるとするなら、それは「日本側が、拉致被害者が死亡していることを認めた時」だけである、と。——この数十年の北朝鮮の状態を考えて欲しい。凄まじい飢餓や敵性外国人への迫害の中で、果たして全員が元気に生きている可能性などどれだけあるのか。日本においてさえ、学校を出て20年もすれば同窓会名簿から3人4人と消される人間が出てくるのが当たり前だ。ごく普通に考えれば、半分以上は既に死んでいると考えたっておかしくはあるまい。「なんてことをいうの! 家族の気持ちを考えなさい!」と叫ばないで欲しい。僕はただ、常識的な感覚で考えればそうもいえる、といっているだけだ。
家族会では「全員の生存を信じる」という態度を貫いている。そして、まるで彼らの決めた方向にあわせて北朝鮮との外交が進められているような気がしてならない。「絶対に生きている」と信じてさえいれば、全員生きて戻ってくるというのか。たとえ本当に死んでいたとしても、信じてさえいれば生きて戻ってくると? そんな、まるで宗教のような考え方で北朝鮮との外交を進めるというのか? ——少なくとも外交「交渉」を考えるなら、「既に死んでいる場合」をも含め、あらゆる可能性を考えて交渉に臨まなければならない。だが、拉致問題に関する限り、「死んでいる」という可能性は考えることすら許されない。「生きている」という可能性以外許されない交渉で、果たして問題解決などできるのか。「信じる」などという外交交渉なんて僕は御免だ。
僕は別に「拉致された人は全部死んでるんだから拉致問題なんてもうやめろ」といってるわけじゃない。「全員生きているという前提の拉致問題交渉が外交交渉のすべて」というあり方はおかしい、といっているのだ。拉致問題は、拉致問題であり、それ以上でも以下でもない、といってるのだ。なぜ、自由な外交交渉が、北朝鮮に限ってはできないのだろうか。拉致問題が大きな問題であることはよくわかっているが、僕はかの家族会に日本の北朝鮮外交を一任した覚えなどない。選挙で当選したわけでもないごく一部の一般人が国の外交を左右するのは正しい姿なのだろうか。
北朝鮮に対し、すべてを否定し、それに反する考えを一切認めない。そんな考え方で交渉などあり得ない。北朝鮮を憎む人は多い、だがそれは北朝鮮の「誰」を憎んでいるのだ? かの国を支配する独裁者なのか、それを支える官僚たちなのか、彼らに黙って従属するしかない一般市民なのか。「北朝鮮」という抽象的な名前を憎むあまり、そこに当たり前のように暮らしている多くの人々の存在さえ無視した感覚、考え方がまかり通ってはいないか。国と国のあり方を考えるということは、その国にすむ無数の名もない人々の生活を考えるということではないのか。お互いの国に暮らす人間たちにとってよりよい関係とは何か?を模索するということじゃないのか。国とは、一部の人間たちだけのものではない。たとえ独裁国家でそのように見える国であったとしても、そこには見えない無数の国民がいる。そういうことを、なぜ考えてはいけないのだ?
国と国とのあり方というものを、もっとさまざまな角度から考えて欲しいと思うのだ。それは北朝鮮だけでなく、米国であっても、ヨーロッパ各国であっても、アジアの国々であっても同じだ。だが、そうした国々の中で殊更に歪んだ姿ばかりが強調され続けているのが北朝鮮であると思う。かの国を信じられないというならそれでもいい。嘘つきだと非難するのもしょうがない。だが、「信じられない、嘘つきの国」と思われる相手といかに交渉するか、というのが本当の外交だろう。そしてそのために、利用可能なあらゆるカードを利用すべきだ、ということを僕はいっているだけだ。——少なくとも「ジョーカー1枚だけでポーカーをする」ようなバカげた外交など、もうやめようじゃないか。
・・まぁ、こういう意見が今の日本において支持されるとは僕自身も全く思ってない。多分、家族会支持という人の方が現在の主流なのだろう。というわけで。「拉致問題の解決なしに北朝鮮との交渉なし!」と叫ぶ方々の御意見、お待ちしております。僕は、どこぞの団体のように「自分たちの主張が絶対正しく、相手の主張は最初から全て嘘だと決めてかかる」ようなことはしませんのでご安心を。
公開日: 火 - 11月 16, 2004 at 02:34 午後