死刑はどうなる?
一般市民が司法に参加する制度がいよいよできあがった。・・あなた、自分が参加した裁判で「死刑」判決を出せる?
まもなく、日本版陪審員制度が開始されることになりそうだ。裁判員(だっけ?)として一般市民が参加し、市民と裁判官とで裁判をすることになるらしい。といっても軽犯罪などまで含めてすべての裁判というわけではなくて重罪のものが中心みたいだ。だいたい、70人に1人ぐらいの割合で、一生の間に一度は裁判員を経験することになりそうだ、という。
とりあえず、法律的なことは脇に置いて、僕が一番興味があるのは、これで死刑判決が増えるだろうか、減るだろうか、ってこと。僕個人の感覚としては、もし自分が参加したとしたら、とても死刑の判決は出せないような気がする。なぜなら、自分の判断にそこまで自信が持てないからだ。他の判決はまだいい、万が一間違いがあったとしても後で何かしら救済の方法は考えられるだろうから。しかし、死刑だけは「万が一」が絶対に許されない。執行した後で「実は・・」なんてことがあったら、これはもう絶対に取り返しがつかない。それを考えると、どうしても躊躇してしまうと思う。そこまで自分が「絶対的に正しい」と思えない以上、死刑だけは選べないよ。
が。これはあくまで僕個人の考え方だ。ひょっとしたら、いや、かなり高い確率で死刑判決は増えてしまうかもしれない、とも考えてしまうのだ。それは、昨今の日本のあり方が「冷静にものごとを判断する」ことから「感情で重大なことを深く考えずに判断してしまう」ような世情になりつつあるように思えるからだ。新聞や週刊誌の見出しなんかから得た印象程度のもので「こんな悪いやつ、生かしておくもんか!」と激情に駆られたまま裁判にのぞんでしまうような人が増えてしまったら・・かなり極端な判決が増える可能性は高くなる気もする。
裁判というのは難しい。僕らは普段、ものごとを考えるとき、「論理的に分析して判断する」ことと「感情にまかせて判断する」ことがある。僕は長い間、裁判というのは常に「論理的に判断し、感情をすべて排除しなければいけない」と考えていた。が、実はそうではないのかも知れない。前にちらっと別の回で書いたけど、「正しい」ものが常に「よい」ものであるとは限らない。なぜ、裁判員という制度が誕生したかといえば、それは今までの法律の専門家による「法律に照らし合わせ常に論理的に判断する」という裁判結果が、常によい判決ではなかったという反省から生まれたのではないだろうか。
法律に照らし合わせ常に正しい判断を論理的に構築する、それ「だけ」でいいのなら、別にわざわざ市民が参加する必要などない。それこそ、法律の専門家をもっと増やして彼らに任せればいいだけだ。それではまずいことがあると思ったからこそ、市民の声を裁判に反映させようと考えたはずだ。市民の声、それは法的に正しいか否かということではなく、そのへんのおっちゃんやおばちゃんが井戸端会議で「ぜったい、あの男、殺っちゃってるわよ」とか「あんなやつ死刑にしちゃえばいいのよ」とかくっちゃべってる、その感覚だよね。
そういう「世の中の多くの人が漠然と思ってるようなところ」というのが、実はもっとも正しいところに近いものなのかも知れない。——法律というのは、「世の中をうまいこと運営していくために決めたルール」なわけで、それ以上でもそれ以下でもない。それを「専門家がなんだか僕ら一般市民からはわかんない専門的な言葉を使って僕らに理解できない高度な知識を駆使して使うもの」に祭り上げてしまった時点で、それは間違いだったんだ。
世の中の「だいたいみんなこう思ってる」ってやつは、案外に正確だったりするのかも知れない。——ただ、それは本当に「だいたいにおいて」であって、時には「世の中の常識」的なものが全く正しくなく且つよくない方向を向くことだってある。そのとき、この新しい司法制度はどう対処できるのか。そのことを今から考えておく必要がある。
とりあえず、この制度をより使いやすくするために僕が考える意見。それは、「死刑制度を廃止し、終身刑を導入する」ということ。少なくとも、世の中が全く間違った方向を向いたまま走り出してしまったとき、死刑でさえなければ過ちを修正する可能性は残せる。——結局、どんな制度であれ、完璧なものは作れない。自分が参加した裁判で死刑にした人間が無罪だとわかったときのことを想像しよう。あなたは、それから先、胸を張って生きていけるだろうか。裁かれた被告も、そして「判決を出した自分自身」も救済できる道を用意しておくこと。それが、「人を裁く」ということに参加するための最低条件じゃないかと思うのだ。
公開日: 金 - 5月 28, 2004 at 05:34 午後