列車事故の原因


・・それはやっぱり、特定の「人間」のせいにされておしまいなんだろうか。

尼崎で、大きな列車事故がありましたね。夕方の時点で死者は50名。まだ一番被害の大きかった1両目はほとんど手つかずのようなので今後更に増えるかも知れないとのこと。——どうやらスピードの出し過ぎか、あるいは線路や車両に何らかの異常があったかして脱線し、そのまま線路脇のマンションに突っ込んだらしい。

既にメディアでは「犯人探し」が始まっている。「スピードの出し過ぎではないか」ということから、運転士のミスという意見があちこちからあがっている。過去にオーバーランの経験があった、直前にもオーバーランがあって、遅れを取り戻そうとかなりの速度で走っていた、等々。実際のところどうかはまだわからないが、なんとなく「またか・・」という少々うんざりした気分になるのは僕だけだろうか。

また、「現場の個人の責任」にしてすべてが終わろうとするのか。そういう感触が、僕をうんざりさせる。経験のない若い運転士が無鉄砲にスピードを出しすぎた、以上。そうして彼に全責任を負わせておしまい。そういう経緯をたどりそうな気がする。確かに、スピードの出し過ぎが事実ならその本人にも責任はあるだろう。だが、それだけなのか。それでおしまいなのか。

電車というインフラは、既にかなりな昔から日本に定着し、僕らが子供の頃から当たり前のように使われてきていた。それだけの実績があるものであるのに、結局、日々の安全は「個人の技量」というやつに頼っているのだ。僕は、この「人間がしっかりして誤りを犯さないことを前提としたシステム」というやつがキライだ。個人がその技量や状況判断でうまいことやりくりするのが当たり前になっている、そういうシステムがイヤだ。

日本人ってのは、どんなジャンルであれこういう「職人技的なもの」で物事を解決することを是とするところがある。熟練した人間の手によって綱渡り的に物事が進められるのを、まるで「すごいこと、立派なこと」であるかのように考え、肯定的にとらえる。——なぜ、「ドシロウトでも問題なく遂行できるシステム」を構築しよう、という方向には向かわないのだろう。

そりゃあ、確かにそういう熟練した技術が賞賛される分野もあるだろう。だが、例えば安全であるとか生命に関わるようなことを、そうした「個人の技量」に依存している姿は正しいのだろうか。最先端の分野であるとか、特殊な世界ならいざ知らず、日常に直結した、広く利用されているシステムがそんなあやふやなものに依存していてよいのか。

個人の技量を当てにすると、いきおい「お前がなんとかしろ」ということになりがちだ。列車というのは定刻通りに運行されることが使命だ。そのために、多少の時間の遅れは「お前が腕でなんとかしろ」というような感覚がまかり通っていたのではないか。

僕は、この運転士を擁護したいというわけではない。ただ、こういう事故が起こる度に、「なぜ、個人の技量で危険な操作を行なえるようなシステムを放置してきたのか」という疑問を抱くのだ。——東海村の臨界事故のような大きなものから「開かずの踏切」の人身事故に至るまで、多くの事故の現場では、端から見れば唖然とするような危険な操作を日常的に行なっているのが常だった。それはつまり、「たまたまそういう人間がいたから」という問題ではない。システムに欠陥があったと考えるべきではないのか。

今回は多くの犠牲者が出た。被害にあった人や遺族の人にとっては、おそらく「こいつが悪いんだ」という直接的な責任者をつい求めてしまうと思う。「全体のシステムに不備があった」というようなことは責任逃れの弁解のように聞こえがちだろうと思う。だが、どうか「安易に責任者を割り出して解決する」ことだけはやめてほしい。事故を起こした人間の向こうにある、「なぜそんな事故を起こし得たのか」ということを考えて欲しい、そう思うのでした。

公開日: 月 - 4月 25, 2005 at 06:49 午後        


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