いらない情報の重要性って?


いつもくだらない情報を垂れ流しているテレビ。見なくなって初めて、実はそれが意外に必要だったのかも?と思ったりして。

このところ、インターネットでニュースを見ている。なにしろリビングには我が家の怪獣ミニラが四六時中のっしのっしと歩き回っていて、なかなか落ち着いてテレビなんて見ていられない。それに加えて、うちの嫁は、昨今の幼児虐待とかそういった映像が流れるのを極端に嫌う。そんなこんなで母子軍団の猛攻に合い、パパは仕事場で一人淋しくぎくしゃくしたムービー映像でニュースを見ることになったのであった。

ま、とりあえず重要なニュースはだいたい見られるし、朝夕の新聞もあるわけだから、不便ということはない。テレビというのは付けっぱなしにしてあると四六時中なにかを流しているわけで、逆にインターネットでは自分が見たいと思うものだけをピックアップして見られ、情報の整理がつく。そういう点ではこのほうがいいのかも知れない。

・・などと思っていた。が、どうもそういうわけでもないようだ。テレビに必要だったのは、この「整理して切り捨てられた、どうでもいい部分」だったのかもしれない。そう思うようになった。

世の中は、雑多な情報でできている。重要な情報だけで成り立っているわけではない。テレビではニュースや報道番組だけでなく、くだらないワイドショウやろくでもないバラエティなどゴッタな情報でできている。そして、多くの良識ある人は、そのうちのくだらない部分に眉をひそめる。——でもね、世の中ってのは多分、そういうものなんだ。きれいな、立派な部分だけで世の中はできていない。ろくでもない、くだらない部分もごまんとある。そこまで含めて、僕らの生きる社会なんだ。

幕張という街を知ってるだろうか。前に、建築設計をやってる知り合いがこの街をこう酷評していた。「この街には、逃げ場がない。汚い路地や横丁がない。そんな街に人間が住めるもんか」と。——あ、幕張に住んでる皆さん、ごめんなさい(笑)。でもね、その言葉が最近、少しわかるようになった気がする。

都心のこじゃれた街などで、よく「ホームレスの排除」をしている。また最近では、ホームレスの支援施設の建設反対などの話もよく聞く。「汚い、いやな部分を自分の目の見える範囲からなくしたい」ということなんだろう。でも、見えるところからなくなるってことは、それが消えてなくなるってことじゃない。

テレビで虐待などのイヤなニュースを見なくなった。気分はそのほうがいい。子供にも、そんな映像は見せたくなんかない。——けれど、目に触れないだけで、虐待がなくなったわけじゃない。世の中は、イヤな部分、汚い部分まで含めてなりたっている。そこだけを切り捨てて「存在しない」かのように取り繕った世の中なんて僕は御免だ。目をそらさずにいよう。そういう、見たくない部分から。少なくとも、表面上だけきれいに取り繕った社会が「いい社会」なんだと錯覚することだけはないようにしよう。

公開日: 金 - 2月 13, 2004 at 10:43 午前        


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