論理的か、感情的か
論理的な意見と感情的な意見。どちらがどちらよりすぐれているの?
どーも最近、ブログをお読みいただいている方が増えてきたらしく、さまざまな感想が届くようになってきた。で、当然ながら耳に痛い御意見もある(笑)。それは主に、「論理的でない、感情に走っている」というような場合が多いような気がする。それはまさにその通りで、おっしゃる通り、時に感情に走っております、ハイ。全くもって弁解の余地はないっす。
といった舌の根も乾かぬうちに弁解するんだけど(笑)、ある意味、僕はわざと「感情的な意見」を述べることがあります。それは、「わざと論理的な意見を述べる」のと同じ理由からです。——世の中は、明らかに「感情的な意見」より「論理的な意見」が正しいという感じで思われているフシがある。僕はそうした風潮に疑問を持っているのだ。
もちろん、社会においては「論理的に考える」ことがよりよい結果につながることが多く、「感情的に考える」ことがまずい結果を導くことが多い。それは確かだ。だがしかし、「論理的であることがすべてにおいて正しい」とはいえない。また更にいえば、「論理的であることが常に『よい』」とも限らない。——僕は、世の中において「正しいか」というだけでなく、「よいものか」ということも考えていきたい。時には「正しい」ことよりも「よい」ことが優先することもあるように思えるのだ。もっとも避けるべきは、「論理的」であれ「感情的」であれ、「その一方だけが正しい」と声高に主張することだ。
人間である以上、誰にでも理性と本能があり、必然的に「論理的な考え方」と「感情的な考え方」が備わっている。誰もがその両者をもっていており、その両者によってこの世の中はなりたっている。すべての事象において、その両方の側面が必ずある。どちらか一方だけでなりたっているものなど、実は世の中においてはありえない。である以上、そのどちらか一方を切り捨てることで「正しい社会」「よい社会」ができるとは思えない。両者をうまく使い分け組み合わせることでしか、よりよい社会は作れないと思うのだ。
では、どういうときにどちらの意見を重視すべきか。僕的には、「社会がどちらか一方に偏ろうとしたとき、そのもう一方に目を向ける」ようにしたいと思っている。どちらがよりすぐれているかというよりも、問題となるのは「どちらかに偏っている」ことではないか。社会は、常に、何か一つのものに全員が「意義なし!」と考えるようになったときに間違える。あるものが正しいと思えるとき、その反対の意見が正しく提起されている状態こそ「正常」なのだ。「反対意見なし!」という状況こそ、もっとも怖れなければいけないものではないか。
すべての人が「論理的にいってこれが正しいんだ」と声高に叫ぶようになったとき、僕はあえて「いや、感情的にはこう考えるべきではないか」と提起できればと思う。また逆に、すべての人が感情に押し流されていこうとしたとき、「論理的に見て、それは間違いだ」とブレーキをかけられればと思う。社会のアクセルとなる人間は世の中にたくさんいる。が、ブレーキの役目を果たす人間はあまりいない。であるならば、僕はそこを目指したい。
「それじゃあ、あんたの信念みたいなものがないじゃないか。その時の社会の状況によってあっちにいったりこっちにいったりするのか」——はい、そうであります。「決して変わらない信念」なんて僕にはないし、そんなものを持つような人間にだけはなりたくないと思っている。僕は「絶対に変わらない信念」を持つ人間よりも、「どんなに固い信念でも、それが誤っているとわかった瞬間に捨て去ることのできる人間」になりたいと思っている。
この世に、絶対的に正しいものはない。あえていうならば、それが唯一、僕にとっての「変わらない信念」みたいなものだ。だから、論理的な意見が世の趨勢であると思えば感情的な意見を採用するし、世間が感情に流されていると思えば情緒を廃し論理だけで意見を述べたいと思う。——僕のブログに「I
think」と「Get
Angry!」があるのは、そういう意味だと思って下さい。どちらか一方だけでは、このブログは成り立たないのです。
公開日: 水 - 6月 2, 2004 at 10:26 午後